〈生涯現役〉 同胞女性のコーラス40年−李貞年さん |
三多摩の遅い春が満開の桜とともにやってきた。 夕闇に映えて白く浮き上がる庭に咲く山桜。李貞年さん(69)の表情にもウキウキした春の気分が伝わってくる。 それもそのはず、記者が訪ねた日はすでに40年にもなる同胞女性たちのコーラスグループ「コールハナ(華)」(10年前に改称)の歌のレッスン日である。 結婚、出産、子育て、仕事。人生の節目、節目を歌とともに生きてきた李さん。「歌とは人生そのもの」といっていいほど暮らしを支えてくれる潤滑油なのだ。 10余年前、朝鮮大学校教授の夫・李熙ルさんに先立たれた悲しみを乗り越えられたのも、歌と歌の仲間のおかげだったとほほ笑む。「心に大きなすき間ができて、どうしよもなく辛い時もあったが、みんなに練習に引っぱり出され、歌に打ち込むことで心の張りを取り戻せました」。 中央芸術団を見て
李さんは36年、東京・大崎で生まれた。物心つく頃には、父は朝聯の活動家、母も女性同盟の支部委員長として活動をしていた。一家は日本敗戦時の東京大空襲を避け、疎開先を転々としたため、李さんは千葉や東京の日本学校を何度も転校した。家族は7男3女の大家族。後に5人の兄弟が北に帰国した。 李さんと歌との出会いは千葉の勝浦中学校で合唱部に入ってから。「全国音楽コンクールで準優勝に輝く伝統校。ここでみっちり鍛えられて、歌う喜びを体感した」。その後、音楽専門学校に通ったものの、肌が合わずすぐ退学。そんな時に偶然観たのが誕生まもない中央芸術団(金剛山歌劇団の前身)の公演だった。なんとも言えないのびやかで明るい朝鮮の歌と踊り。社会主義朝鮮の息吹を感じさせる舞台の虜になったことを50年たった今でも鮮やかに覚えていると李さん。 それから3年後の58年に見合い結婚。「お金がなくてもまじめで、誠実そうな人柄にピーンと来るものがあったから」。東京中高教員だった夫の母は、普段もチマ・チョゴリで生活する人だった。義母に「ムンタドゥラ」「アンジュラ」と言われてもウリマルがわからない李さんは「……」。 まもなく朝大に異動した夫と共に職員寮へ。「言葉が分からず、不安でいっぱいだった」が、それもすぐ解消した。朝大の食堂で働き始めるなかで、自然に日常会話を学び、やがて成人学校でもウリマルを習い始めた。2男1女に恵まれ、長女が初級部に上がってからは、1年生の教科書を開いて、娘と一緒に勉強した。
三多摩女性同盟のコーラス部が創設されたのは、63年。下の息子を身ごもっている頃から練習を始め、生まれた後は背中におぶって2人の子供の手を引いて通った。 「ウリノレは、私に民族の心や文化を自然に呼び戻してくれました」 当時の中央芸術コンクールに出場するたびに金賞に輝き、日本中に「三多摩女性コラース部」の名がとどろくようになった。 こうしたなかで、李さんは歌だけでなく、民族教育の諸権利を守る署名活動やデモにも積極的に参加するようになった。 「朝大の職員寮のオモニたちと力を合わせて夢中でビラ配りをしたり、署名を集めた。乳飲み子は当番を決めて預け合ったりして。朝大認可の署名の時は、炎天下のなか、朝大の最寄り駅・鷹の台商店街をくまなく歩き、商店主たちに訴えて回ったが、みな快く協力してくれました」 いつか「鳳仙花」を 歌と「コールハナ」の仲間たちとともに過ごした日々。その美しい歌声は近隣の人々の評判を呼び、3月13日には立川市の老健施設「わかば」の慰問公演も行った。「朧月夜」「臨津江」など朝・日の名曲を次々に披露すると患者や家族、職員たちの目に涙が光った。同施設の女性職員から「初めて見たチャンゴ、かわいい民族衣装、美しい歌声に心から感動しました」という礼状が届き、今度は重症患者たちにも聴かせてほしいといううれしい要請も。 歌が何より好きな李さん。65歳の誕生日には子供たちのプレゼントで、アリランなど6曲を吹き込んだCDを制作。昨年は日本のコーラス仲間500人と「第九」を原語で歌うステージに立った。いまの密かな願いは最も愛する歌、日帝時代に抵抗歌として愛唱された歌曲「鳳仙花」を同胞たちと共に合唱することである。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.4.25] |