〈人物で見る日本の朝鮮観〉 浅川巧 |
浅川巧(1891〜1931)は世俗的な意味で高名な人物ではない。本業は一介の林業技手(技師の下位)で、朝鮮に渡ってからは、本業と関連しては朝鮮の緑化事業に大きく貢献したことはもちろんであるが、それより重視さるべきは、朝鮮の民芸品についての研究でその美の発見につとめ、朝鮮および日本社会に大いに朝鮮民芸の価値を高めさせたことにある。 浅川巧は山梨県北巨摩郡の現在の高根町で、農業兼紺屋の如作、けいの次男として生れた。父如作は巧の生れる4カ月前に亡くなったので巧は、生涯、実父と接することなく育った。兄は7歳上の伯教である。兄弟を育てたのは、父方の祖父小尾伝右衛門である。祖父は俳句の宗匠として、この地方では知られた人物である。1909(明治42)年、山梨県立農林学校を卒業、直ちに秋田県大館営林署小林区署に就職した。翌1910年、朝鮮併合のあと、兄伯教は甲府でキリスト教会の仲間に朝鮮から持ち帰った陶磁器を見せられて、その美しさに息をのんだ。彼自身も彫刻芸術を志していたこともあって、たちまち伯教は朝鮮陶磁器のとりこになった。そして、1913(大正2)年、陶磁器をはじめとする朝鮮美術に接したい一心で、ついに朝鮮に渡るのである。 巧はその翌年、兄を頼って朝鮮に渡り、朝鮮総督府山林課に就職することになる。浅川巧は兄によって朝鮮の美術工芸、そして民芸に開眼してゆくのである。 1915年12月、巧は兄伯教と柳宗悦を千葉我孫子に訪ねる。兄は前年、朝鮮白磁を持って柳をたずね、柳もまた朝鮮白磁の美しさに打たれ、にわかに朝鮮陶磁器に対する関心を高めることになる。1916年、柳宗悦は朝鮮にやってき、巧の家に泊まることになるが、ここで巧の収集していた民芸品を見、そのすばらしさに驚嘆する。こうして、浅川兄弟と柳宗悦の朝鮮工芸品と民芸品を共通関心事とする親密な交際が始まるのである。そして間もなく朝鮮民族美術館を設立する運動を起す。 1922(大正11)年、柳、浅川兄弟、富本憲吉らは京城(現ソウル)で朝鮮民族美術館主催で「李朝陶磁器展覧会」を開催したのもこの運動の成果の一つである。浅川巧の朝鮮工芸に関する著作も少なくない。 さて、浅川巧の朝鮮観である。 1923(大正12)年9月10日の日記に、妻の弟からの便りに、関東大震災で朝鮮人が放火したと伝えられ、「東京及その近郊の日本人が激昂して朝鮮人を見たらみなごろしにすると云ふ勢ひで善良な朝鮮人までが大分殺されつつある」ことを知る。彼の日記は続く。「いくら朝鮮人が日本に反感を抱いていたにして〔も〕此の不意の災害に際して放火するとは人情がなさすぎる。鮮人の無智なものを煽動してさうさせた不心得の日本人があると思う。〜自分は信じる。朝鮮人だけで今回の不時の天変につけこんで放火しようなんという計画をしたものでないと。寧ろ日本人の社会主義者輩が主謀で何も知らない朝鮮人の土方位を手先きに使ってしたことと思う。一体日本人は朝鮮人を人間扱ひしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。〜自分はどうしても信ずることが出来ない。東京に居る朝鮮人の大多数が窮している日本人とその家とが焼けることを望んだとは。そんなに朝鮮人が悪い者だと思い込んだ日本人も随分根性がよくない」。事態を正確につかんでない浅川は、朝鮮人の放火はあったものと思っている。しかし、どうしても信じられないという。そして、放火は社会主義者の煽動による、と推測する。そしてこうも書く。「事実があるなら仕方もないが、少なくも僕の知る範囲で朝鮮人はそんな馬鹿ばかりでないことだけは明らかに云い得る。それは時が証明するであろう」。これはこの通りになった。9月10日条の日記は長いが、その最後に驚くべきことを書いている。「日本は大東京を誇り軍備を鼻にかけ万世一系を自慢することは少し謹しむべきだと思う」。浅川巧は、社会主義には反感を示していたが、日本の軍備増強を批判し、天皇の万世一系を自慢することは慎しめ、と書いたのである。当時は、これだけで不敬罪に問われ重刑はまちがいない。朝鮮人蔑視、迫害の先に天皇制があるとの指摘は卓見としか云いようがない。 浅川巧は朝鮮独立論者ではない。しかし、総督政治への批判は実に鋭い。折からの朝鮮神社の建設工事に関連して、「(従来あった)美しい城壁は壊わされ、壮麗な門は取除けられて、似つきもしない崇敬を強制する様な神社など巨額の金を費して建てたりする役人の腹がわからない」。また「景福宮は大院君でなければ竣工しなかったであろう。偉大な建築は偉大な人間によらなければ出来ない。明治神宮にはどこにも偉大さを見ることは殆んど出来ない」とも書く。景福宮再建のための民衆への苛税の実態を知るわれわれはにわかに同意しかねるが、明治神宮に偉大さは見られないとする巧には驚かされる。 浅川巧の余人に真似のできない最大の特色は、朝鮮の風土と人情を愛し、その世界に自らを溶けこませた稀有の存在であるということである。この稿は高崎宗司氏の研究と資料収集に負うところ、大である。(琴秉洞、朝・日近代史研究者) [朝鮮新報 2005.4.27] |