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在日の半生「身世打鈴」−新屋英子さん オモニ一人芝居2000回に

共に泣いて、笑った32年 祖国統一への思い

 2005年4月24日、大阪中之島公会堂を2000人の観客がぎっしりと埋め尽くした。2000回記念公演新屋英子一人芝居「身世打鈴−在日オモニの身の上話」が上演されたのだ。

2000回公演を迎えた新屋英子さんの一人芝居

 1973年4月29、30の両日に、大阪・梅田の「辻」という喫茶店で上演したのがはじまりであった。「身世打鈴−在日朝鮮人女性の半生」という本をもとに、新屋さん自身が脚色して、28分間の短い劇で30人入れば満員になる喫茶店で初演は行われた。

 この物語は、日本の植民地時代に15歳で済州島から日本に来て、貧困と差別の中で、争いながらいつも明るく前向きに生きる一人のオモニの回想によって一人語りの形式で演じられている。時と共に物語は付け加えられ、1時間20分になった。結婚、そして夫の被爆死、そして子供の北への帰国と、在日の歴史が語られていく。新屋さんの語りは、見ようによっては全く演技とは思えないほどの自然さである。セリフの間に、力強くダンボールを力を込めて叩く、まるであらゆる悲しみと怒りをもって叩く。

 しかし彼女の語りは、愚痴も泣き言もなく、淡々と生活を語ってゆく。ある少年が憲兵に追われてきたのを便所の中にかくまって助ける。ユーモアを込めて日本の官憲と堂々と闘っていくハルモニの真骨頂が見える。数年後、かくまった少年が訪ねてきて、一枚の肖像画をプレゼントする。その一枚の絵を観客に嬉しそうに見せる新屋さん。私は思わず涙がこみ上げてきた。不意打ちである。私のオモニを思い出したのである。一世もこんな風に、明るくたくましく生きてきたんだと思った。新屋さんの芝居は、あまりにも自然で、演技であることを忘れさせ、共に笑い、涙しながらあっという間に一時間半が過ぎた。劇中民謡も歌い、仮面をつけて踊る。役者とは結局人間性だなぁとしみじみ思った。舞台での新屋さんという人間の存在感が人々を圧倒する。私もミュージカル「豆もやしの歌」に新屋さんに出演してもらったが、二つ返事で快く出演して下さった。いつも誰よりも早く楽屋に来られて、他の若い役者さん達と一緒に楽屋を使ってもらったが、「私は若い人と一緒の方が楽しい」と言う気取らない方である。演じながらも何度も私のところへ来られて、「これで良いのかどうか意見を言って欲しい」と、積極的に役作りに取り組んでいる姿は真摯である。小さな役でもおろそかにしないのである。

 一人芝居が終わって新屋さんの挨拶があった。一人芝居の初演からずっと夫の鶉野氏のお母様の前で、必ず演じて、見てもらったとのこと。そのお母様の応援なくしては、今日まで続けることは出来なかったこと。チマ・チョゴリのアイロンがけを、お母様がご自分の手でして下さったことを新屋さんは淡々と語られた。夫に対する深い愛情が感じられた。舞台の後のダンボールの中の一枚をよく見ると、鶉野さんの似顔絵があった。最後に、32年間一人芝居、新屋さんのチマ・チョゴリをずっと縫い続けた、洪静子さんが登場した。二人の真っ白なチマ・チョゴリ姿がまぶしく輝いていた。日本も朝鮮もなかった二人は、互いに慈しみあってお互いの手を握り合った。

 新屋さんにとってこの2000回は、2000年のように長く、そして、たった2秒のように、またたく間の時であったと思う。新屋さんコマッスミダ。

 奇しくも、60年前の9月24日、中之島公会堂は、約3000人の在日同胞が集まって、祖国解放の喜びに沸いたところでもある。(高貞子、児童文学者)

争いのない世界を

 ひとり芝居の先駆者として、大阪のベテラン女優・新屋英子さん(76)が、代表作「身世打鈴」を演じ続けて今年で2000回、32年。祖国を奪われ、故郷を離れ、渡日した在日1世女性が貧しさと差別の中でたくましく生き抜く物語である。

 新屋さんは大阪・天満生まれ。近所には日本に強制連行されてきた在日朝鮮人がたくさん住んでいたと言う。親からは「あそこに近づいたらアカンで」と言い聞かされた。

 「友だちもいてかわいそうやと思いながら、親に逆らえなかった」という痛恨の思い。大阪の高等女学校を卒業、陸軍の経理関係の仕事に就いた。敗戦の虚脱を経て、「国に操られてきた自分」に目覚め、演劇を志す。小林多喜二をむさぼり読み、市川房枝さんや神戸市子さんの演説会に通った。そんな新屋さんが出会ったのがある本だった。もともと東京の女性グループが聞き書きした「身世打鈴−在日朝鮮人女性の半生」。それまでは「何で多くの朝鮮の人たちが、日本に住んでいるのか分からなかった」新屋さんの心に強い衝撃が走った。

 「脚本を書き、一人で演じたい。日朝のむちゃくちゃな近代史、日本の軍国主義によって植民地にされていった歴史を直視し、土地を奪われたたくさんの人々が日本に渡って来ざるを得なかった歴史をちゃんと見つめることから始めなければならない」と決意を固めた。

 その後、新屋さんは日本が朝鮮を植民地にしてからの年表を作って、それをヒロインの半生に重ね合わせて、さらに多くの在日のオモニたちに聞き書きして、自ら脚本にまとめ、演出をした。

 初演は73年、大阪の喫茶店。初めの28分の上演時間は回を重ね、膨らみを増して現在は1時間20分に。

 上演会も広がり、日本各地の公園や学校、大ホールどこにでも出かけた。30人のところもあれば、大阪ドームでは約3万人を前に演じたことも。反響は海外にも広がり、南の木浦や北京でも公演した。

 芝居を見たある在日のハルモニが、手を握り締めて、「あんたも苦労してきたんやなあ」と新屋さんを本当の朝鮮のハルモニと思い込んで泣いたエピソード。新屋さんは「コリアンの役者に間違われることほど光栄なことはない」と破顔一笑する。

 舞台衣装はずうっと白いチマ・チョゴリ。「白は高潔、不屈、不変な心を表す朝鮮民族の色」と新屋さん。

 「根強い差別、世界各地で続く戦争や紛争。一日も早く南北が統一され、日朝の平和を願うオモニの思いを、世界中の人々に伝えていきたい」と。(朴日粉記者) 

[朝鮮新報 2005.5.16]