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栃木・下野薬師寺の「1塔3金堂」 東国に高句麗の伽藍様式

復元された下野薬師寺跡の廻廊の西側一部と柱石。右側の樹林から塔跡と東西の金堂が発掘され、1塔3金堂様式であることが判明した(南門側から見る)

 今、栃木県南河内町の下野薬師寺跡が注目されている。というのは、高句麗独特の寺の伽藍の配置様式である、1塔3金堂様式が発見されたからである。1塔3金堂様式というのは、塔を真ん中に挟んで三つの金堂が東、北、西に配置され、南門と塔、北の金堂が中軸上に一直線に並ぶという伽藍の建築様式である。

 これまで、日本において高句麗の伽藍配置によって建立された寺が確認されているのは、奈良の飛鳥寺だけであった。596年に竣工した飛鳥寺の最初の住職は、高句麗から来た慧慈であった。聖徳太子を20年間にわたって教えた慧慈その人である。

 7世紀末に創建された下野薬師寺についての南河内町教育委員会による最近の発掘調査は、これまで考えられてきた伽藍配置とはまったく異なることを明らかにした。

 まず、伽藍中央の中軸線上にある建物が塔であることが確認され、その東側の建物が東金堂、西側の建物が西金堂となることがわかり、さらにこれまで講堂としてきた北側の建物が中金堂と判断されたのである。

 このような伽藍配置は、まぎれもなく高句麗寺院の伽藍の配置であり、5世紀の平壌の定陵寺や金剛寺、6世紀末の飛鳥寺の1塔3金堂様式の基本にのっとって創建されたことは明らかであろう。

 ところで、このような高句麗の寺院様式を持つ下野薬師寺は、誰が、どのような人々が建立したのであろうか。言われているのは、7世紀末、古代日本の天武天皇の時代、中央政界で官位と財力を持ち、今日の栃木県一帯で勢力を張っていた豪族、下毛野朝臣古麻呂である。都から遠く離れた東国の支配と結びついた、仏教政策の強力な拠点としての役割を担う壮大な寺院の建立を考えるならば、その可能性は高い。

 しかし、ここでぜひ考えてほしいことがある。奈良・飛鳥寺でみられるような、最も先進的な仏教文化とその思想、最新の寺院建築技術を駆使して、栃木の南河内の大地を開拓し、そこに壮麗な寺院の堂塔を実際に建立した人々は誰であろうかということである。

新たに判明した下野薬師寺伽藍配置

 それは言うまでもなく、先進的な文化と思想、学問と技術を担った朝鮮半島から渡来した人々である。それをよく傍証し、語ってくれるのは日本三大古碑の一つであり、国宝として名高い、栃木県の那須国造碑とその碑文である。この碑は、下野国の中心、今日の宇都宮市の北方に位置する、那須郡湯津上村の笠石神社のご神体として崇められている。碑文は700年1月2日に死去した、那須国造である韋提の善政を称えたものである。

 注目したいのは、国造として那須一帯を治めた豪族の韋提を顕彰する碑文を作成し、碑を建立し、刻字した新羅の人、今日の慶尚道から渡来した人々のことである。指摘されているように、碑文は格調高く、優れた文章力で書かれ、中国文献をも厳密、自在に駆使して表現されている。それは、渡来した人々の驚くべき文化の高さと教養の深さを示すものであった。

 この時期、新羅から多くの人々が渡来し、居住した地域一帯を開拓した。1塔3金堂様式を持つ、下野薬師寺が建立された7世紀末には、高い文化と教養、技術を持った新羅の人々が下野国に渡来したことは確実である。新羅の人々が687年3月と、689年4月に下野国に渡来し、居住したことが記録されているからである。この時期に限ったことではないが、高句麗と百済からの渡来も十分考えられる。飛鳥寺は、高句麗の設計者と百済の瓦工と大工によって建立されているからである。

 今一つ考えねばならない問題がある。下野薬師寺は、高句麗式の1塔3金堂であると述べたが、典型的な飛鳥寺とはやや異なる点があることである。それは、典型的な高句麗式のように、塔が3金堂に完全に囲まれ、中金堂のすぐ前に位置し、東西金堂と横列になっていないことである。塔は一直線上にあるものの、中金堂から遠く離れ、東西両金堂より前に位置しているからである。

 このように、基本的には高句麗式であるが、異なる点があるのは、新羅の古都・慶州にある皇龍寺と共通している。569年に完成した皇龍寺は、基本的には1塔3金堂様式であるが、塔は、中金堂の前にあるものの、東西両金堂が中金堂と横一列になっている特異な形式をとっている。

 これらのことを考えてみると、高句麗式の伽藍配置も基本形式をとりながらも、時代と地域の具体的な条件に適応して、変化を見せることもあるということを示している。(全浩天、考古学研究者)

[朝鮮新報 2005.5.21]