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岡部伊都子写真展 伝わる美と命をいとおしむ心

光州を訪ねた岡部さん(2000年5月)

 一人の女性として、日本の侵略戦争の原罪を背負い、そこから決して目を背けず50年あまり執筆し、発言し続けてきた随筆家・岡部伊都子さん。4月13日から5月15日まで滋賀県・能登川町立図書館で岡部伊都子写真展「古都ひとり」が開かれ、5月8日には同館ホールで「岡部伊都子さんを語る」が行われた。昨春には約半世紀にいたる母なる朝鮮への思いを込めた随筆集「朝鮮母像」(藤原書店)を出版した。戦争と差別を憎み、「美といのちをいとおしみ」「それらを脅かすものへの抵抗と怒り」(古書店主・上野朱さん)を貫き通した豊かな歩み。会場には連日、日本各地から詰めかけた多くのファンが、岡部さんの作品に魅了されていた。

 岡部さんの書くことの原点は戦争の犠牲者となった兄とそれに続く婚約者の「死」だった。出征の前夜、初めて二人きりになった部屋で婚約者は岡部さんにこう言った。「自分はこの戦争は間違いだと思っている。天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」。幼い時から結核で全身虚弱、うしろめたさを抱えていた岡部さんは、その彼の言葉を理解できず「私なら喜んで死ぬけれども」と冷たく答え、戦地へと送り出した。

 敗戦後、このことにずっと苦しみ続けた岡部さんは婚約者の終焉の地・沖縄にも何度も足を運び、戦争の実相と婚約者の最期の様子を知る。

対談「岡部伊都子さんを語る」(5月8日)

 「岡部伊都子さんを語る」をテーマにした対談の講師・上野朱さんは、筑豊炭鉱に暮らしたジャーナリスト・故上野英信さんの長男。両親と岡部さんの親交を幼少の頃から肌で感じて育った人でもある。その上野さんは「長州出身の父は、家では天皇制そのもののような存在だったが、終生虐げられた朝鮮人炭坑夫や被差別部落の人たち、失業者たちのために、共に怒り闘った人。一方、岡部さんは女性たちの悲しみに寄り添って、差別に苦しむ人々を慈しみ深く抱きしめてきた。丈夫そのものだった父は64歳で早逝したが、病弱の岡部さんは、命を切り刻むようにして世の不条理に怒り、書き続けてきた。いつまでもお元気で私たちを励ましてほしい」と語った。

 婚約者との出征前のやりとりが敗戦後の岡部さんの「加害の女」としての生き方を決めた。婚約者を死なせたのは自分であると。戦争を否定していた彼が死に、ぬけぬけと生きている自分。時代や教育のせいにするのではなく、すべてを自分で引き受けようとする潔さ。岡部さんが自己を厳しく見つめ、深い思索の道に踏み出したのは敗戦から10年程経った54年から。

 この日の対談のもう一人、女性問題心理カウンセラー・朴才暎さんは、普通の元気な人であれば見落とすかもしれないもの、美術であれ、暮らしであれ、伝統であれ―岡部さんは生きとし生ける小さな命に目を止め、拾いあげて書き続けてきたと指摘、「まるで山本安英演じる夕鶴のような人」だと形容した。すると上野さんも共感し、「岡部さんはタダの夕鶴ではない『鋼入りの鶴』」だと語った。

写真展のもよう

 人間社会への鋭い批判から母の握ったおむすびの味までを、控えめに静かに、でも強い信念で社会に訴えてきた岡部さんの歩み。朴さんは「岡部さんが作ってくれた不条理と闘い続けるその広い輪の中にいると人として安心していられる。その温かさ、慈しみの輪を多くの人たちにもっともっと広げていきたい」と笑顔で語った。

 岡部さんの文章を貫く太い幹。それは日本文化の祖流こそ「母なる朝鮮」であるという深い思いであり、それを蹂躙し、ねじ伏せた日本への強い怒りであり、差別への悲しみである。

 岡部さんは今年83歳。その精神の強靭さは外見からはおよそ想像できない。昨年は東京・四ッ谷で開かれた特別講演会に出席して「65年からずうっと家に無言電話や脅迫状が来る。その度に『私はまだ節を曲げてへんで』と気づかされる。この国で覚悟せなんだら、何も言えへん。何も書けへん」と語りながら、 「わたしたち日本人も、人間でありたいんです。まともな人間でありたいんです」と訴えていた。凜とした生き方は、平和を求める人々の「花あかり」であり続けるだろう。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2005.5.23]