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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 高浜虚子

 (1874〜1959)は俳人にして小説家である。和歌、俳句を含めた詩歌革新を唱えた正岡子規が明治35(1902)年に没した後、子規に兄事していた虚子は、実質的にその後を継ぎ以後の明治後半期、大正、昭和前半期にわたって日本俳句界に厳然と君臨し続けていた人物である。戦後、文化勲章をもらった。その高浜虚子は生涯4度ほど、朝鮮を遊行しているが、この稿では、最初の朝鮮行時の小説「朝鮮」をもとにその朝鮮認識を見よう。

 虚子は伊豫松山市で父池内庄四郎政忠、母柳の四男として生まれた。本名は清である。父は松山藩の剣客で祐筆を勤めていた。9歳の時祖母死去の際、その家系を継ぎ高浜姓となる。松山藩は佐幕派だったので維新後、旧藩士たちは生活に追われた。父もその例にもれない。虚子は智環小学校、伊予尋常中学、京都の三高、さらには仙台の二高を経て、東京専門学校(現早大)に通ったが、中退した。中学生の時、友人河東碧梧桐の紹介で正岡子規を知り、子規から虚子という号を受けた。以後、子規のもとに集まる多くの俳人たちと交るが、中でも当時、松山中学の英語教師夏目漱石と知り合ったことは虚子にとり大きな知的財産となった。1897(明治30)年、柳原極堂が松山から「ほととぎす」を発刊したが、経営困難となり、虚子がこれを東京に引取り、俳誌「ホトトギス」を子規の協力も得て発行することになる。以後、「ホトトギス」によって虚子の名は世に拡まってゆく。

 さて、高浜虚子の朝鮮認識である。1911(明治44)年の4月〜5月の間、虚子は朝鮮に遊び、その見聞を基に小説「朝鮮」を大阪毎日と東京日日の両紙に連載した。

 船が釜山に着いた時、港にいた朝鮮人を見て「『一人一人皆、煙管を銜へているね』とか、『皆、小相撲のような頭をしていやがる』とか、我等の傍らの人は話し合って笑っていた」とある。また、海岸通りを歩いて「道傍に物を売っている多くの朝鮮人の中には女もあった。彼等は両方の脚をひろげるようにして蹲踞み、前に大きな飯台を置き、其周圍に集っている朝鮮人に一一何物かを盛り渡していた」とある、ふんどしかつぎ、両方の脚をひろげて物を売る女、客観的には単なる風俗の違いとして軽いカルチャーショックですむ問題だが、これは蔑視感の表出だ。また、釜山停車場における子供の朝鮮人と日本人夫婦のやりとりも興味を引く。チゲで重い荷物を背負ってきた子供の朝鮮人に男は五銭白銅貨を与えるが、子供は「足りません」と言って手を引っ込めない。男は「無い無い」と言って子供を突きのけようとするが、子供は聞かない。明らかに10銭の約束で重い荷物を運ばせ、半値で追い払おうとしているのである。女房の方が根負けして、5銭白銅を加えるが、この悪辣な植民者の行為に作中の主人公は「同胞人のこの賎しむべき挙動を余は自分の事のように恥かしく感じた」とある。

 虚子が目撃したであろうこの話の本質は、日本侵略者の朝鮮民衆に対する卑劣な行為で、植民地支配に起因する普遍的な意味を持つものとして把握されるべきものだが、「自分のことのように恥しく感じた」と自己自身の内に帰納させてしまう。つまり、虚子の朝鮮認識の限界性が早くも示されたのである。

 次に興味を引くのは、小説「朝鮮」に描かれた朝鮮および朝鮮人像である。時期は併合直後の1911年である。洪元善という人物が出てくる。「洪元善君は当年の志士さ。見給へ、あの歯は拷問の為めにすっかり抜き取られてしまったのだ」と紹介されるが、その人物は今は日本植民者に寄生して生活するという設定である。また、素淡という以前、宮中にも出入していた有名妓生も出てくるが、この女性の扱いはかなり微妙である。彼女の所持する絵葉書の第一番目に安重根があることで、いまだ心からは日本の植民地支配を肯定しない朝鮮人の存在を暗示させている。小説「朝鮮」の最後は平壌を中心に話が進行する。主人公ら一行は、牡丹台、乙密台に登り、眼下の大同江の景色をながめて「絶景」と叫ぶ。もちろん、この附近を日清戦争時の古戦場と紹介し、大同江の舟遊びもやる。別な日、大同江に大小二隻の舟を浮べ、小舟は妓生舟にして、萬景岱(マンギョンデ)まで漕ぎ下ろうと話がきまる。この作品で萬景岱は「牡丹台の話が出るとすぐ引合ひに出る名前」とある。つまり、景勝地である。その「萬景岱に船を着けて後、其処の百姓家(に)飯だけ焚かそう」ということになったが、米がない、ということで実現しなかった。しかし、この作品には、1911年という時点での萬景岱が無心の筆で写されているのである。虚子は日本人の舟と妓生舟とを比較して「彼等と我等日本人との間には到底融和すべからざる或物があるようにも見えた」と書いている。作中で主人公は、「内地」にいる時、日本の海外発展という事に関心はなかったが、一度海峡を渡ると衰亡の国民を憫む心がおこると同時に、「被征服者を憫み乍らも、同時に此発展力の偉大なる国民を嘆美する心持で、流石に日本人は偉い。と初めて此為す有る民族の上に、自己も其民族の一員としての抑へ難き誇を感ずるのであった」と思うのである。高浜虚子の侵略を肯定する朝鮮認識の本音であろう。(琴秉洞、朝・日近代史研究者)

[朝鮮新報 2005.6.8]