朝鮮開化派の指導者・金玉均の墓 強制移転の危機に |
無縁仏に改葬の恐れ
朝鮮の近代化と自立、さらに朝鮮、中国、日本の3国間の国際連帯と平和を構想した朝鮮開化派の指導者・金玉均が1894年3月、上海で暗殺されてから今年は111年。享年43歳だった。熱烈な祖国愛に燃え、近代化と発展を希求した金玉均の遺志はその後、朝鮮民族の抗日独立闘争へと受け継がれた。その金玉均の墓は東京都港区の都営青山霊園の外国人墓地に建つが、石原都政によって強制移転の危機に直面している。 青山霊園は1874年に開設された日本初の公営墓地の一つ。広さ約26ヘクタール。そんな広大な墓地のあちこちに、石原都知事名の「10月までに使用者が申し出なければ無縁仏として改葬する」と書かれた看板が建つ。その主な狙いは、金玉均の墓もあり78区画が該当する外国人墓地。 「金玉均と日本−その滞日の軌跡−」などの著書を持つ金玉均研究の第一人者で、本紙に「人物で見る日本の朝鮮観−その光と影」を連載中の琴秉洞氏(77)は、墓前に手を合わせたあと、都知事名の看板に目をやりながら、「無縁仏として改葬する? こんな酷薄無情な措置は許されない」と怒る。
金玉均は、日本で10年にわたる亡命生活を送ったあと、上海に渡り、暗殺された。その死を悼み、日本の後援者らがその遺髪と衣服の一部をひそかに朝鮮から持ち帰って墓を建てた。墓碑は金玉均の死から10年後の1904年、後に総理に就任した犬養毅、政治家で作家の柴四朗や頭山満らの支援によって建てられた。自然石に「金公玉均之碑」と刻まれた墓碑は縦3メートル、幅1.2メートル。周辺の他の墓碑よりはるかに大きい。碑文には「鳴呼、たぐいまれな才能に恵まれ、大変な時期に生まれ、すぐれた功もなく、無念のうちに命を落とし…死体は故国に帰っても、身体には罵声を浴びせられ…」などと刻まれている。 金玉均を師とも兄とも仰いだ知識人兪吉濬の文を基礎に、甲申政変の同志・朴泳孝(1861〜1939、後に親日派に変節)が作成、大院君の孫である李呵Oが書いた。 金玉均の暗殺は、朝・清・日3国の支配者による謀殺だと言われている。日本政府は朝鮮略取を企む日清戦争へ国民を思想動員するために、この暗殺事件を徹底的に利用していく。そして、日本帝国主義による朝鮮完全占領という事態が、金玉均の評価をゆがめる大きな原因となった。 解放後の朝鮮半島でも、一部に金玉均を「親日派」と見る根強い偏見があった。これについて金日成主席は「中国では康有為、梁啓超などが、ブルジョア改革運動を行いました。わが国では金玉均がそのような運動を起こしたと見るべきですが、一部の学者は、深く研究もしないでかれに親日派の烙印を押しました」と強く批判した(58年3月)。さらに、主席は92年に刊行された回顧録第1巻の中でも、悲運に倒れた金玉均を「すぐれた人物」と高く評価し、志半ばで倒れた先駆者の業績を称えた。そして、封建体制の諸矛盾の激化と外国勢力の侵略が進む中で、政変を準備する際に日本を利用したのは「親日的な改変をするのではなく、当時の力関係を綿密に検討したうえで、それを開化党に有利に変えるためだった、当時としてはやむをえない戦術だった」と指摘した。 外国人墓地には、立教大学などを運営する学校法人立教学院の総理を務めた英国人アーサー・ロイド(1852〜1911)、帝国ホテルの総支配人を務め、西洋式ホテル経営の基礎を築いたドイツ人のフライク(1865〜1907)など、日本の近代化に貢献した人たちが葬られている。今回の都の非常識な動きに対し、韓国大使館や立教学院などは「管理費を払う用意はある」と申し出ているが、都は「10月までに使用者からの申し出がなければ墓は都の所有」と頑くなな態度を崩していない。 近代史に詳しい國弘正雄・英国エジンバラ大学特任客員教授の話 金玉均はじめ功労のあった外国人の墓を都が一方的に改葬するなどということは国際的にみても恥ずかしい。金玉均は朝鮮近代史に輝く大変な政治家である。当時の日本人篤志家たちが金玉均の墓を丁重に建てたことの意味を考える時、都の改葬の動きは、自らの歴史を否定することであり、東アジアの情勢を考えても大変憂慮する事態である。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.6.25] |