〈朝鮮歴史の断片@〉 「征韓論」と日本の紙幣 |
内部矛盾の矛先を外部、朝鮮に 「征韓論」について、これまで日本では多くの場合、朝鮮が1872年に鎖国政策を取ったことに対抗し、翌73年に西郷隆盛、副島種臣、後藤象二郎、板垣退助らが武力によって開国させることを目指し、同時に士族の不満を外に向けさせるためのものだったと主張。内政を重視する大久保利通や岩倉具視などによって押さえ込まれた「一時的な思想潮流」だったと教えられてきた(たとえば、「学習研究社」発行の「定期テスト対策・まんが攻略BON! 中学歴史下巻」70ページ)。 英国のインド、中国、仏のインドシナ半島、米国の日本、フィリピン進出など、当時のアジアは欧米列強による侵略の対象となっていた。 1866年の米武装船による大同江(平壌)侵入、仏艦隊による江華島の一時占領など、朝鮮半島も例外ではなかった。 日本では1868年の「明治維新」以降、米国など欧米列強によって半植民地的な隷属下(治外法権など不平等条約の存在)に置かれるようになった。 当然、民族的および社会的な矛盾が噴出してくるが、士族の反乱戦争といえる西郷隆盛らによる1877年の西南戦争も、その矛盾が表面化したものだろう。このような内部矛盾の矛先が外に向けられた時に、侵略戦争に発展していく。 1890年に開かれた第1回帝国議会で首相の山県有朋は、「朝鮮はわが国の利益線」だと公然と主張した。 日本の富国強兵を実現するには、朝鮮半島を植民地支配するしかないという具合に、意図的に育成された侵略思想が「征韓論」であると思う。 侵略資金を提供した福沢諭吉 1万円は欲しいけれども、どうしても好きにはなれない。印刷されている肖像画のためである。 福沢諭吉(慶応大学の創始者)の「脱亜論」に次のようなくだりがある。 「今日の某をなすに、我が国は隣国の開花を待ち、ともにアジアを興(おこ)する猶予(ゆうよ)あるべからず。むしろその伍を脱して西洋の文明国とともにして、その支那・朝鮮に接する法も、隣国がなるゆえにとて特別の解釈に及ばず。まさに西洋人がこれに接する風に従って処分すべきのみ」(時事日報、1885年3月16日) 簡単にいうなら、日本はアジアから脱し、朝鮮と中国を植民地支配せよ、という意味である。 福沢は朝鮮侵略のための軍事資金として1万円を献金した。清日戦争勃発時(1894年)の、日本政府の国家歳入額が約1億円だから、大変な額である。 この「脱亜論」が「征韓論」派、侵略思想の精神的な支柱になっているために、福沢の肖像画が1万円札に使われているのだろうか。 なお、日本最後の100円札の肖像画は「征韓論」者の板垣退助であり、以前の千円札はそれを実践した伊藤博文だった。 過去の侵略史を日本が美化していると思われても仕方がない。(鄭誠哲、朝鮮問題研究者) [朝鮮新報 2005.6.27] |