top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 「毎日体を動かして、信者さんに喜んでもらう」−李王さん

 大阪市天王寺区の和気山統国寺に住む李王絢さんの日課は、毎朝6時に本堂の掃除をすることから始まる。掃除が終わると水をかえて線香をあげ、納骨堂へと向かう。暑い日も、寒い日も、毎朝1時間の掃除は休むことなく繰り返される。7時からは息子の住職と孫の僧侶、李さんの親子3代が並んで朝の礼拝、お経を読み上げる。李さんが得度(仏門に入る儀式)したのは9年前。先代が亡くなって隠居生活に入ってからのことだった。

北海道天塩生まれ

李王絢さんは96年から開かれている「ウリキョレ女性展」の立ち上げにも協力した

 1930年、北海道天塩郡で生まれた李さんは、豊かな自然のなかで健やかな幼少時代を過ごした。

 忠清南道出身の父親は、幼い李さんに故郷の話をたくさん聞かせてくれた。早くに母親を亡くした李さんとよく遊んでくれたのは、砂金採掘をしていた父とともに働く日本の労働者たちでもあった。

 山から炭坑町へ移り住み学校に通いはじめるようになってからは、週末になると食べ物を探して下りて来る鉱夫たちの姿をよく見かけた。すすの付いた顔、汚れた作業服。

 「当時は戦争中で、食料なんて売ってなかった。日本も食べ物がなくて大変だった」

 鉱夫たちは「スフ」という木の皮の繊維でできた麻のような作業服を身につけていた。「ぺらんぺらんの服にゲートルを巻いて、マフラーを巻いても、寒さの厳しい北海道では本当に辛かったと思う」。

在日コリアンの寺、統国寺の「大雄殿」は、大阪市の文化財に指定された

 学校の帰り道に鉱夫らとすれ違うと、友だちは、「きったない!」と顔をしかめた。そんなとき李さんはまともに正視できなくて、いつもうつむいて見ないようにしていた。「あとから思えば、あれが強制連行で働かされた炭鉱夫だった」。

 教育熱心な父親のもとで、李さんはギリギリの生活のなかでも、女学校まで通った。「創氏改名」が行われたのは、小学校高学年のときだった。「周りの友だちの名前がどんどん変わっていった。ある日を境に、朴さんが『木村』さんというように」。

 李さん自身も女学校に上がるとき、「この名前(朝鮮名)だと都合が悪いので、お父さんに言って変えなさい」と先生に「指導」されている。

 戦争の黒い影は、着実に生活のなかにも入ってきた。「近所のお兄ちゃんが学徒動員で駆り出されて、茨城県の航空隊に行った。町の靴屋のお兄ちゃんは広島の海兵学校に。当時は制服姿に憧れもした。航空隊に行ったお兄ちゃんは訓練中に死んだとの知らせを聞いた」。

「台所で食事を?」

李さんの作品

 解放を迎えてまもなく、李さんは父親に連れられて「同胞の集い」に参加した。夕張で開かれた「朝連」の結成式だった。

「大きな講堂に朝鮮の人がいっぱいいて。朝鮮の人ってこんなにたくさんいたんだ…と思った」

 女学校を卒業した李さんは、父親の勧めでその年の10月に結婚した。18歳の妻と28歳の夫。

 夫ははじめ、「朝鮮の女性は非常に貞淑だ。顔を上げて男を見ない、大口で笑わない、大声でしゃべらない、肉も食べない、魚も食べない、食事を摂るときは台所で…」と言っていた。

 あまりにも女性を見下す理不尽な言葉に李さんはそのとき、「30前なのにこれだけ女性を侮蔑して。だから、国が滅びたのだ」と、胸の内で強く思ったと言う。朝鮮の男性のなかには、日本社会の厳しい民族差別とそれに起因する貧困から生じたやり場のない苦痛のはけ口を妻に向け、暴力をふるう者もいた。

 結婚の翌年、李さんは双子の女の子を産み、その後、2人の男の子を出産した。北海道から宝塚に移り住み、子どもたちを朝鮮学校に通わせた。81年に夫が他界。大阪の共和病院で看護助手・ケースワーカーとして働くなか、夫の供養のために度々統国寺を訪れた。住職との再婚話が持ちあがったのはそういうなかでのことだった。「東京の仏教徒協会の委員長が来て話をした。住職の奥さんも亡くなられ、寺を守るためには助けが必要だと」。

 子どもたちの賛同を得て、李さんは新たな生活を送ることになる。「毎日体を動かして、信者さんに喜んでもらう」のは、今でも李さんのささやかな喜びである。李さんは書道の腕を生かして、可能なかぎり寺の仕事を手伝っている。

 亡き父の供養のため寺に通う長男に、ある日、住職は「坊さんにならないか?」との話を持ちかけた。数日間悩んだあとに長男はそれに応える。94年に先代の住職が亡くなり、今では長男とその息子が寺の僧侶となった。

 李さんは98年から寺で毎週火曜日、書道教室を始めている。1年前には20回にかけて八尾支部の書道サークルの指導も行った。東洋書道連盟専門部師範。高麗書芸研究会の会員でもある。

 沙里院で暮らす長女を気づかい、南の故郷へはまだ一度も行っていない。

 「激動の時代を生きてきた。今はいくぶん穏やかな日々を過ごしています」(金潤順記者)

[朝鮮新報 2005.6.27]