朝鮮解放60年−日朝つなぐ人々−@ 元首相夫人 三木睦子さん |
今年は朝鮮が日本の植民地支配から解放されて60年。02年に朝・日平壌宣言が発表されたものの、いまだに過去は清算されておらず、宣言を具体化するための交渉も中断されたままである。日本の各界には朝・日間の歪みを正し、一衣帯水の隣国として平和と和解の実現に尽力してきた人々がいる。それぞれの「日朝和解への思い」を紹介していく。第1回目は7月31日、米寿(88)を迎える元首相夫人の三木睦子さん。 親しみは少女の頃から 「統一した朝鮮半島を見たい」
ブッシュ政権によって、対北外交がずいぶん後退し、日本も「右へ倣え」となって、日朝関係がなかなか進まないと嘆く三木さん。 「何とか私が生きている間に統一した朝鮮半島を見ることができればいいのに。それが私の生涯最後の夢です」と語る。 まもなく米寿を迎える人の日常とは思えないほど、毎日が忙しい。カッカと腹を立て、怒ることが「生きる張り合いになっている」とニッコリ。憲法9条を守る市民たちの会合に呼ばれて、鎌倉に出かけて講演したり、教科書問題をめぐる学者たちの会合にも呼ばれる。「激しい言葉で怒ってほしい」と、みなに期待され、ついそれに応えてしまう三木さんなのである。 「もう年なんだから、仲良しルンルン、みたいなところだけ出るようにして。柳眉を逆立てて『けしからん!』とかギーギー言うような場所に出かけるのはやめてほしいんだけど…」と孫からあきれ顔で諭されたりするのはいつものこと。
この数年来のエネルギッシュな活動には、脱帽するしかない。数度訪朝し、「従軍慰安婦」「歴史教科書」「戦後補償」「朝鮮の統一問題」「国交正常化」−など普通の人ならば、尻込みするような難しい問題に取り組み、ついつい「吼えてしまう」(本人の弁)のである。 少女の頃、東京・四ッ谷にあった実家に2.26事件(日本陸軍の一部将兵たちが軍首脳、政治家たちを襲った)を起こした「反乱軍」が寝泊まりするという体験もあって、大概のことには驚かない。 「朝鮮」がいつ頃から意識の中にあったのかと言えば、学校に上がる前に起きた1923年の関東大震災までさかのぼる。「東京中焼け野原になったため、家の中が被災者たちでごった返していて、何だか興奮していたことが記憶にある。大人たちの会話から『朝鮮』という言葉が耳に入ってきて、日本にたくさんの朝鮮人たちが住んでいることを知った。虐殺事件の事実を知ったのは大分経ってから」。実家には、朝鮮半島からの留学生たちが寄宿していて、三木さんは彼らといつも食卓を囲んだ。東京府立第一高女時代には親友もいた。朝鮮への親しみの原風景はここにあった。 「第2次世界大戦でアジアの国々にあれだけ迷惑をかけたのだから、なんとか日本が率先して平和のために尽力するのが筋ではないかと思って…」 とりわけ印象深いのは01年、東京で開かれた「アジアの平和と女性の役割」の集い。北南朝鮮の女性たちが一堂に会する場として自宅を提供し、北南の女性たちを結ぶかけ橋としての重責を担った。「北から来られた呂鷰九さん、南の李効再さん、尹貞玉さんは共に梨花女子大学の同窓生。3人がわが家で46年ぶりに抱き合ってボロボロ涙を流している様子を見て、その運命の不思議さに心打たれた」。
男に比べて女は社会的なしがらみが少ない分、自由に活動できると三木さん。「男の人たちにまかせると話がとげとげしくなる。でも、女性たちは政治的立場が違っても、『そんなこといいじゃないの』と仲良くできる。それぞれが教育のこととか、いろいろ抱えている問題を出し合って、ざっくばらんに話あえる。これは面子や利害関係と違う、もっとも人間的なところだ。だから、今後も何とかして朝鮮の統一や中国を含めた東アジアの真の平和の実現のために、こうした活動を続けたい」 94年。三木さんは孫たちと一緒に招待され、金日成主席と和やかなひとときを過ごした。実の祖父をすでに亡くしている孫たちは、「私をおじいさんだと思って、休みにはぜひ遊びにいらっしゃい」などと主席に話しかけられて、すっかり意気投合した。 「南北の和平は建国以来の念願です。だから、手伝ってくださってほんとうにうれしい、ありがとう」としみじみ語った主席の言葉が耳から離れないと語る。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.6.28] |