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外国人学校で教えて(上)−あまりに大きい保護者負担

 本社発行の「イオ」を読んでいて、盛夏を迎える昨年の今頃をふと、思い出した。思えば1年前、本当にひょんなことから、偶然に、外国籍の子供たちが通う外国人学校で授業を頼まれ、ワンショットで教えに行くようになった。最初は言葉の壁もあり、子供たちとは言うものの、学制の違いもあり、未就学児から日本で言う中学生くらいまでの子供たちまでが一堂に会する、日本とは授業の内容も、進度も、教育に対する教え方も違う、外国人学校で、はたして、本当に教えられるかどうか、不安と焦燥に駆られたものだった。とは言うものの、少しでも、子供たちと時間を共有し、子供たちと共感し、そして、共存したいと言う、机上の理想から、二つ返事で快諾をしてしまった。

 そんなわけで、外国人学校で教え始めて、1年近くが経つが、そこでは、自分の教育観を変えさせてくれるさまざまな出会いや、本当に多くの貴重な経験をさせてもらった。まずは、何と言っても、文化の違いである。夏にはフェスティバルが催されるが、朝鮮と同じように、やはり舞踊は欠かせないものである。同じ舞踊でも、比較的都市部と地方では、また違いもある。

外国人学校でのパソコン教室

 言語を専門にする私たちの領域では、フィールドワークが比較的困難な、土着の民族や、少数語族などの、とくに未開の文化を早急に把握する手段として、色に対する概念や色彩への命名法、冠婚葬祭等を見ることによって、ある程度の文化が伺い知れると一般的に言われている。

 今年も、サマーフェスティバルがもうすぐ行われるが、田舎の結婚式をテーマにした子供達の寸劇と祝舞は、練習風景を見ているだけでも、なかなか興味を惹かれるものがあり、朝鮮の舞踊同様に一見する価値がある。子供たちも一生懸命内容を教えようとしてくれる。

 また、カトリック教徒が多いということもあり、クリスマスの、祝い方も日本とは大きく様変わりをしており、今更ながらに形骸化してしまったお祭りムードだけの日本のクリスマスに、日本人として少し羞恥している。

 ようやく、今まで頭でしかわかっていなかった異文化間コミュニケーションと言うものが、体得できてきた今日この頃、その学校が、困窮を極め、学校閉鎖の難局面を迎えている。やはり、直近の問題は、学校経営上の経済的問題である。父兄から授業料は徴収しているものの、なかなかそれだけで学校は成り立つものではない。月謝一つ取ってみても、日本の私学の高校並みか、場合によっては、それ以上になることもある。教科書も、空輸で言わば直輸入。学制の違いもあり、また、たとえば、数学などの教科書を見ても、日本よりもレベルが高く、内容も盛りだくさんとあって、各学年、各教科をひとそろえともなると、軽く数万はざらである。これは、日本では考えられないような、非常に由々しきことである。子供の為とは言え、保護者負担は大きいと言わざるをえない。

 もちろん、学校では、制服や、ランチ、そして子供たちの一番の楽しみである、遠足に当る行事等への、参加費等々、何かとお金はかかるものである。遠足などの行事には、私も毎回誘ってもらえるので、行ける範囲で極力参加してきたが、やはり、子供たちが一生懸命、まだ慣れない日本語で、自分たちのうれしかったことを話してくれるとき、一緒に来て良かったと実感できる、教師の醍醐味とも言える、充実感を感じる一瞬である。(教師・堀内秀俊、長野県松本市在住)

[朝鮮新報 2005.6.29]