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〈朝鮮歴史の断片A〉 王室支配と封建制度

19世紀、腐敗堕落した朝鮮王朝

 19世紀、李氏朝鮮の国王に純宗、憲宗、哲宗の3人がいた。長期政権にあぐらをかいていた3人は、安逸をむさぼっている間に妻方の安東金氏らに実権を握られた。国王中心の封建国家でこのような事態が発生すると、派閥を生み賄賂と権勢政治がはびこるようになる。

 1863年に哲宗が病死した。彼には皇子がいなかったので、王室で論議した結果、王族・李「應の次男、命福が26代目国王として高宗を名乗ることになった。このとき高宗は12歳だったので、実際には彼の父が大院君を名乗り実権を握った。

 大院君は、@鎖国強化、A不正腐敗一掃、B王室権威回復の三大改革を行った。清国とともに、日本とも断絶状態になったのはこのためである。

 三大改革の最大の目的が、王室支配による封建制度の維持にあったために近代化政策が立ち後れ、農民に対する搾取が強化されるようになった。結局、大院君の政治は失敗に終わる。

閔妃一族の事大主義、投降主義

 1866年3月、王妃になった閔妃は、閔氏一族を中央と地方の重要官職に座らせ、1870年代初に一大勢力を形成した。1873年11月には大院君を権力の中枢から追い出した。このとき、閔妃一族が重要官職を握っていたため、高宗は身動きのできない状態にあった。

 権力支配には賄賂などの不正が付き物になっているが、閔妃集団が犯したもっとも大きな過ちは、事大主義的な投降主義にあった。

 実権を握った閔妃は1874年7月、釜山にあった形だけの倭館(日本領事館)に側近の゙寧夏を送り、森山領事に密書を渡した。密書には「大院君が粛清され、朝鮮の政治情勢が一変したので、これからは日本との関係改善に全力を尽くす」と記されていた。

 日本の力を借りて欧米列強の侵略から国を守ろうとする試みだったが、逆に日本の侵略脅威に立たされたと判断するや、「外国同士牽制させる」という口実で、欧米列強にすりより、結果的に侵略の道を開いた。

 閔妃集団の売国的な政策は、民衆の怒りを買い、各地で侵略勢力の横暴と、封建政府の過酷な搾取に反対する農民抗争が発生した。

 侵略の脅威を受けているのに、封建統治機構が腐敗し、事大主義を犯したために、その結果として国論が分裂、国を守れなかったといえるだろう。(鄭誠哲、朝鮮問題研究者)

[朝鮮新報 2005.7.1]