続〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−1〉 朝鮮最初の洋医 金點童 |
金點童は、朝鮮初の西洋医学専門女医であり、医療活動を中心に啓蒙、宣教など社会活動に心身をなげうった女性である。 1877年、ソウルで生まれた彼女は開化思想に目覚めた父、金弘澤のおかげで梨花学堂(現梨花女子大)に入学、本名・金點童から洗礼名エスタに改名した。 女性と子どもの病院 優れた才能の持ち主で、とくに英語がずば抜けていたという彼女は、保救女館の医師で梨花学堂の教師として就任したホール、そして後に彼の夫人となる医師、シュワードの通訳を任せられる。保救女館は女性と子供を治療するために創られた病院で、梨花学堂の構内に建てられた。朝鮮で初めてのこの女性専門病院を、明成王后閔妃が保救女館と名付けた。ホール夫妻は聡明なエスタに医学を教え留学させようと考える。こうして彼女は保救女館で通訳をしながら、医療補助員としても働き基礎的な医療技術、薬の調剤法や看護などについても教わることになる。通訳、勉強に比べて手術は少し苦手だった彼女だが、兎唇の人を治す手術に感嘆、医師になる決心をする。 その後ホール医師が亡くなり、ホール夫人の斡旋で米国留学への奨学金を受けるようになる。しかし、「遠い他国の地に娘一人行かせることはできない」と言う両親の意思を尊重して、朴ユサンと結婚(このときから朴エスタと呼ばれる)、1895年朝鮮人女性として初めて米国留学の途へ旅立った。 米国への留学 米国に到着した彼女は、ニューヨークのパブリックスクールで1年間修学、6カ月間の看護学校課程も終える。そして1896年念願であったバルティモア女子医科大学(現在のジョンズホプキンス大学)に入学、粘り強い努力で一学期から正規の医学生として単位を取得する。 4年間の課程を終え卒業を目前にした試験の最中、彼女は思いもよらない悲劇に遭う。彼女を経済的に支えてきた夫、朴氏が病に倒れ帰らぬ人となったのだ。しかし、彼女は逆境を乗り越え、1900年学位論文にパス、朝鮮女性として初の医学博士(MD)となった。これは日本を経て米国に渡り西洋医学を専攻し博士になった徐載弼に継ぐものである。 帰国後、彼女は保救女館で診療に携わる。入院、外来、往診を含め、毎年診た患者は1人で3400余件、これには休日、夜間の救急患者は含まれていない。 当時朝鮮には迷信を信じる人がたくさんいた。たとえば、1902年コレラが流行したが、人々はコレラを「ネズミの病」と思い、ネズミを捕って食う猫の絵を、戸の上に張りり付けたと言うのだ。猫の絵をお守りとして張り付けて、この病気を追い払うことができると信じたのである。 彼女はこういった無知な人々を悟らせ、迷信を打ち破るために、両班、庶民の家庭を問わず訪問し、衛生の知識など啓蒙活動にも力を注いだ.ムーダン(占い師)に占ってもらわなくても、病気を治す医師としての確かな腕前と、献身的な診療で彼女の評判は日増しに高まっていった。 その後平壌の起忽病院に移り、1903年には黄海道、平安道の村落に出向き巡回診療をすすめた。カマ(駕籠)の入れないところにはロバに乗り、患者を無料で診療する一方、衛生、医療改善を呼びかけながら女性教育と伝導にも努めた。 1906年からは、ホール夫人と共に、平壌の廣恵女院で1年に数千名の患者を治療した。それからホール医師が創った盲学校で、英語の教材をハングルに訳して教える一方、女子聖経学校での講義も行った。 過重な仕事の負担により彼女は病気を患い一時仕事を中断する。2カ月後再出発するが、今度は火事で病院が全焼、薬品をも全部失ってしまう。このような打撃にも彼女は決して負けなかった.病院を新しく建設し、看護学校を設立する仕事で主導的な役割を成し遂げる。 活発な医療活動と社会活動を通して、いつも女性たちの啓蒙と地位向上のために努力を惜しまなかった彼女は、1910年4月13日、きつい仕事がもとで肺結核を患いこの世を去った。彼女の生涯は女性も男性と同等な教育を受け、職業を持ち、社会に大きく貢献できるということを、身を持って教えてくれた。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) 金點童(朴エスタ)(1877〜1910)梨花学堂を卒業。1895年渡米、ニュ−ヨ−クパブリックスク−ルを経て、1896年バルティモア女子医科大学に入学。1900年医学学位(MD)取得。帰国後西洋医学を専攻した最初の女医として医療を中心とした社会活動で名を馳せた。貞信女学校初代教師、辛マリア(元の姓は金氏)の妹で、3.1運動の時愛国婦人会事件で1年の刑を受けた辛義卿の姨母(オバ)に当たる。 [朝鮮新報 2005.7.4] |