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外国人学校で教えて(中)−あまりの無理解と偏見

 ウリハッキョはもとより、日本でもそうであるが、学校を造り、維持し、そして大きくしていくことは、日本の私学でさえも、公立と違って、それはそれは並大抵のことではない。日本の私学でも、多額の負債を抱えながらも、借り入れを繰り返し、ようやく維持している学校も実際にある。まして、1条校の問題があり、補助金や私学助成金すらままならない外国人学校では、その苦労は日本の私学の比ではないと憶測している。

 卑見ではあるが、学校が学校として存在するに値する根拠がある以上、それは、学校として、認可承認が成されてしかるべきである。教育を国が保護するのは、当たり前のことである。心底強い、教育への、信念や理想を持ち、それが名ばかりで終わることのない、熱意あふれる外国人学校が、実のところどうかと言うと、その現状たるものは、あまりにも凄まじく、非常に苦しい逼迫した状況になっている。名実ともに日、一日が、必死の思いなのである。もっと門戸を叩き、異文化のすばらしさや、外国での教育のあり方と言うものを目の当たりにして、井の中の蛙にならないように、日本人も内省すべきである。教育も国際社会で孤立しないことが必要不可欠である。

 ウリハッキョは、おそらく私などの日本人が、とうてい、想像すらできない程の、多くの同胞の方たちの、まさに血のにじむような努力があって、今のウリハッキョが存続を続けていることと思う。校舎ひとつ建てるだけでも当然、並大抵のことではない。さらに、校舎さえ建設できれば良いというものでも当然なく、学校を維持していくための、資金と言うものは、相当なものである。おそらく、父母負担というものは、日本の公立とは比較にもならないほどの重いものだと想像している。

明るい表情で学ぶ外国人学校の生徒たち

 ここ何年か日本の公立では、それとは相反するように、父母負担の軽減が推奨され、なるべく公費負担(県費、団費など)でまかなうように指針が組まれている。外国人学校の現況とは裏腹な、社会のひずみが如実に現れているこの現実を、当たり前だと思っているのが、今の日本の教育の現実である。子供たちへの教育において、何ら相違は無いはずなのに、嘆かわしいかぎりである。

 今、私が携わっている外国人学校では、微力ながら私を含め、教職員総出で、この難局面を乗り切るべく、多方面から、策を練っているところであるが、暗礁に乗り上げてしまうことも多々あり、予想以上に困難を極めている。もちろん、そこには、その国の文化や教育観、学校経営に対する考え方の相違等もあり、父母の考え方もまちまちであり、そして、お国柄もそこにはあるので、日本人のこれまでの常識だけで、物事が運ばないことも事実ではあるが…。

 また、お役所にも、さまざまな交渉等で、通訳を兼ねて同行したことがあるが、学校を造り、維持していくことの大変さは、ここまで無償の義務教育が、浸透している日本では、なかなか理解を得られない。これには、かなり驚いたものである。さらには、外国人教育というか、外国人に対して、ここまで、理解はないくせに、そのくせ、ここまで偏見や差別意識は強いものかと、今さらながらに青息吐息の状態である。とうてい、宥恕できるものではない。

 授業が成り立たない、教師に暴言吐露、暴力を振るうなどと、教育の本質からは、あまりにも、かけ離れた悪辣な現実が、今の日本の学校教育にはある。そんな日本の公立学校に、多額の公費を投入するくらいなら、せめてあともう少しでも、何とかならないものかと思うが、歯がゆいばかりである。

 あまりにも、今の日本では、学校に通えることが、当たり前過ぎになっている。もちろん、識字率は低いよりは、高い方が良いことは否めないが…。(教師・堀内秀俊、長野県松本市在住)

[朝鮮新報 2005.7.4]