〈人物で見る日本の朝鮮観〉 石橋湛山 |
石橋湛山(1884〜1973)は骨太の優れた言論人にして経済学者、そして政治家である。湛山は1911年1月、東洋経済新報社に入社し、以後、千数百余篇の論文を発表、後に15巻の浩瀚な全集にまとめられた。実に明治、大正、昭和の3代にわたる大言論人である。その説くところ、経済政策、財政問題にとどまらず政治、軍事、外交、普選問題、文化一般におよぶだけでなく、植民地問題、すなわち朝鮮問題にも特異な認識を示した注目すべき存在である。 湛山は1884(明治17)年9月、杉田湛誓、きんの長男として、東京麻布で生まれた。父は日蓮宗の僧侶で、漸次出世して、総本山身延山久遠寺の法主にまで、のぼりつめた人である。湛山は事情により母方の石橋姓を継ぐ。また、10歳のとき、故あって、山梨中巨摩郡の長遠寺住職の望月日謙に預けられる。 湛山は住居の変更に従い山梨のいくつかの小学校を転校し、1895年、11歳で山梨県立尋常中学校に入学。1903年早稲田大学高等予科に入り、翌年同大文学部哲学科に入学、1907年首席で卒業する。一旦は東京毎日新聞に入社するも1年未満で退社し、1911(明治44)年1月、東洋経済新報社に入る。 これより、この「東洋経済新報」誌に拠った湛山の35年間にわたる怒涛のごとき言論活動が展開されるのである。湛山の生きた時代は、日露戦争後の、アジア征覇を目指す軍国主義思潮の高揚した時代である。大陸進出は日本の国是と認識された、これに反する言動は激しく指弾された。この風潮のなかで、湛山は敢然として反軍国主義、反大陸進出、軍縮を主張するのである。湛山の立論の基礎は、東洋経済新報社の言わば社是である自由主義、民主主義、反帝国主義の伝統を正しく受け継いだことにある。 さて石橋湛山の朝鮮認識である。朝鮮で3.1独立運動が起こった。湛山は社説に次のように書く。「およそ如何なる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来殆どない。…朝鮮人も一民族である。彼等は彼等の特殊なる言語を持って居る。多年彼等の独立の歴史を持って居る。 衷心日本の属国たるを喜ぶ鮮人は恐らく一人もなかろう。故に鮮人は結局其の独立を回復する迄、我統治にたいして反抗を継続するは勿論、而かも鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、其反抗は愈よ強烈を加うるに相違ない」。そして、結局は「鮮人を自治の民族たらしむる外にない」と説いた。 また1921(大正10)年7月、米国の提案で軍備縮少会議が開かれ、日本もこれに参加したが、湛山は驚くべき提言をする。7月23日の「社説」に発表された「一切を棄つるの覚悟」である。「例えば満州を棄てる、山東を棄てる、…例えば朝鮮に、台湾に自由を許す。其結果は何なるか」と一切の大陸での利権また、朝鮮などの植民地を手放せ、と言うのである。 湛山はさらに、同じ週の7月30日、8月6日〜13日の3回にわたって、「社説」、に「大日本主義の幻想」を書く。「朝鮮、台湾、樺太を領有し、関東州を租借し、支那、シベリヤに干渉することが、我経済的自立に欠くべからさる要件だなどと言う説」があるが、これは「事実を明白に見ぬ為に起った幻想に過ぎない」と断じ、軍備についても「他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略せらるる虞れのない限り、我国は軍備を整うる、必要のない筈」と書く。これは8.15敗戦後の新憲法第9条の精神を先取りした卓見と言わざるをえない。 1923年9月1日、関東大震災で6千余人の朝鮮同胞が虐殺された時、湛山は「社説」に「此の経験を科学化せよ」を発表した。 「流言蜚語は盛んに走った而して其の流言蜚語を寧ろ警察や軍隊が伝播した」と指摘し、「青年団及在郷軍人団等は、竹槍を持ち、或いは古武器をかつぎ出して諸所に屯し、通行人を誰何したり、或いは気の毒なる1部の同胞を逐い廻すことには争って従事した」、と書く。そして10月27日号の「小評論」に「所謂鮮人の暴行」と題し、「日本は万斛の血と涙とを以て、過般の罪をつぐなわなければならぬ」と書いた。 また、「気の毒な自警団」と題し、「小評論子は先日衆人しゅう坐の中にて殺人行為をほこらかに語ったものあるを見て、之は由々敷大事である、…彼等の或者は其の殺人を以て一ぱし国家の為め大功を立てたかに思っていたのである。そもそも彼等をして、斯く思い込まし者は誰か。それこそ実に真の犯罪である」。湛山には朝鮮人虐殺の真の犯罪人が見えていたのである。石橋湛山に朝鮮独立を真正面から論じたものはない。しかし、植民地放棄論は間接的な独立論である。湛山の透徹した史観と高い見識は、満州事変以後の戦時中、あの戦争狂気の時代、しばしば苦渋に満ちたものにもなるが、本質的には一貫したものであった。 戦後、政治家に転じた湛山は鳩山内閣のあとを承けて総理大臣になるが、病気のためわずか2カ月余で退陣した。次の首相は東条開戦内閣の商工大臣にしてA級戦犯の岸信介である。その岸首相により日本の進路が大きく対米追随路線にカジ取りされて今日に至ったことを思うとき、石橋湛山のあまりにもいさぎよい退陣は惜しみてもあまりあることであった。(琴秉洞、朝・日近代史研究者) [朝鮮新報 2005.7.6] |