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外国人学校で教えて(下)−教育の差別許されぬ

 「イオ」でも、外国籍の子供たちの通う、日本のなかの外国人学校のルポが取り上げられていたが、私も全く同感で、むしろ、実際に現場に入ってみると、それ以上に筆舌に尽くしがたいものもある。年代物の倉庫を借りて、改築に改築を重ねて、教室をセパレーツにし、払い下げや、廃棄処分になった資器材を譲渡してもらって、一応の学校らしい体裁を整えたりしてはいるものの、設備に我慢するのみならず、教職員も給料が出ないときさえもある。自分たちは無給でも良い。でも、子供たちにはかわいそうな思いをさせたくない。こんな切実たる、損得勘定を抜きにした、教育の根底がそこにはある。見習わなければならない、教師のあり方である。しかし、無給で教え続けることは、あまりにも憂慮すべき、深刻な事態である。惨いと言えば惨い話である。もちろん、教育は、利潤の追求をするものではないが、あまりにも負担が大きいと言える。

明るく学ぶ外国人学校の生徒たち

 日本にいると、教える環境が整っていることが、余りにも自然で、そのことを今まで何も感じてこなかったが、このような設備が不十分であるなかでも、教育の灯火を絶やさずに、存命をかけて日夜奮闘している学校があることを知り、自分のなかで大きく教育観が変わった。そして、このようにおそらく全国に点在している、潤沢な環境ではないけれど、存続をかけて、たくましく生きている教育の草の根は、何としても育てていかなくてはならない。

 子供たちへの教育の灯火は、いかなることがあっても、絶対に絶やしてはならない。子供たちが教育を受けることは、人間として生まれてきた子供たちが、当然庇護されるべき、いわば人格権であり、基本的人権を尊重していくうえでの、基本的最低限の、ファーストステップである。

 子供は、生まれながらにして、教育を受ける権利を持って生まれてくるのである。個人が、学校が、経済的な理由から教育を受けられない、受けさせてあげられない、と言うような、究極の事態だけは、何としても忌避しなければならない。まして、子供たちが教育を受けられないのみならず、子供たちがお金を稼ぐために大人たちの犠牲になるような、たとえば、人身売買や、性の搾取の対象になるようなことだけは、絶対に回避しなければならない。これは子供たちの人格を、無視したことである。

 子供たちに教育を与えることは、社会に帰属する、大人の義務だと思うが、子供達に教育を施すことは、大人が子供たちに与えてあげられる、後年になっても決して、荒廃することのない、尊い無形の財産である。

 教育とは、子供たちが自分自身で、まだ気づいていない本当の実力を引き出すことである。

 教育を、私たちは当たり前のように受け、そして、私の両親も、ご他聞に漏れず、私にも教育を受けさせてくれた。恵まれたありがたいことである。当たり前と思えることが、当たり前にできていると言うことほど、幸せなことはない。

 教育を受けられないことに起因する、子供が被る全人的損害は、甚大である。

 教育を受けること、そして、受けさせることに、いかなる、差別も偏見も許されない。

 今、あらためて、教師を志した、あの日の自分に邂逅し、あらためて、学校存続へ向けた新たな決意を固めている。(教師・堀内秀俊、長野県松本市在住)

[朝鮮新報 2005.7.6]