朝鮮解放60年−日朝つなぐ人々−B 京大名誉教授 上田正昭さん |
京都の市民団体「日朝友好促進京都婦人会議」が1975年から催してきた「朝鮮文化をたずねる会」が昨年5月、50回を迎えたが、発足当初から講師を引き受けてきたのが歴史家の上田正昭・京都大学名誉教授である。朝鮮文化の影響が色濃く残る日本各地の遺跡や社寺などを市民たちと共に訪ねて、正しい歴史観の発信に務めてきた。 20年ほど前から上田さんは「民際」という言葉を使ってきた。「国際という言葉は国と国との関係を示したもの。国があっての人ではない。国より先に民族があり、民衆がいる」。この言葉には「民衆と民衆の関わりこそが大切」と考える上田さんの想いが込められている。 「あらゆる国の政権は交替する。永遠に続く政権はこの世に存在しない。国家の利益を第1に考える『国際』には限界がある。だからこそ民衆と民衆の交流が何よりも大切なのだ」 今まで朝鮮には、朝鮮社会科学者協会などの招待を受けて3回訪れた。1980年8月の初訪問時には、外国人としては初めて高句麗文化の徳興里壁画古墓や定陵寺跡などを視察した。朝鮮の研究者たちと発掘調査の成果をめぐって平壌でディスカッションをしたこともある。 南にも10回、沖縄にも数え切れないほど足を運んだ。
上田さんは、鋭い人権感覚から在日朝鮮人や被差別部落の問題にも積極的にかかわり、その問題意識から、従来の学説を総合する独自の方法で研究を大成した。古代朝鮮、南島文化、神祇と道教、日本神話、部落史、芸能史などの多大の業績の中に、朝鮮を正当に評価したいという史眼を貫く。 「渡来の文化は認めるが、渡来の集団とその役割を認めないという風潮はいまなお存在する。そうした見方が誤っていることは、その後の研究成果からも正されてきた。人間不在の文化論によっては、古代日本の歴史と文化を正当に評価できるはずがない」 日本民族を単一民族とみなす素朴な受けとめ方は、いまもなお日本の政治家、官僚のみならず、多くの人々の中に根強く生き残っているが、そうした曲解は、1910年代から日本の学界の中でも提起され続けてきた、と上田さんは指摘しながら、「それらは複合民族説にかんする研究史をかえりみない俗説であり、実証的な歴史学や考古学、人類学などの研究成果を無視した、歪められた見方や考え方である」 と断じる。 2001年12月、平成天皇は桓武天皇と朝鮮の深い結びつきをめぐる発言で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本記に記されていることに韓国とのゆかりを感じます」と発言して日本国内の大きな反響を呼んだ。しかし、上田さんが65年に著書でその史実に触れた時は、「近く天誅を加える」だの、「国賊上田は京大を去れ」だのという物騒な手紙や嫌がらせ電話に悩まされた。 日朝間の鋭い対立、敵対の時代にも史実を見据え、歴史の前に謙虚な姿勢を保ち続けた上田さん。78歳の今も朝鮮の平和統一と日朝の国交正常化を願ってやまない。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.7.7] |