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〈朝鮮歴史の断片C〉 清日戦争とロ日戦争

日本の不法な派兵、侵略戦争の開始

 1894年2月、日本の侵略と封建的な搾取に反対する甲午農民戦争が発生した。甲午農民戦争は、朝鮮王朝の存亡問題に発展した。朝鮮王朝が農民弾圧のため、清国に軍隊の派遣を要請すると、日本は居留民保護の口実でぼう大な兵力を朝鮮半島に派遣した。その結果、1894年7月25日に清日戦争が勃発した(日本側宣戦布告は8月1日)。

 清国の朝鮮派兵は朝鮮王朝政府の要請によるものだが、日本のそれは不法だった。日本の侵略戦争はここから始まったといえる。

 1895年4月、清に勝ち戦勝国になった日本は、朝鮮を支配する目的で王室に干渉した。ようやく日本の侵略意図を悟った閔妃集団は、1895年7月、封建政府から親日勢力を追放する一方、帝政ロシアに接近するようになった。

 閔妃集団が朝鮮侵略の邪魔になると判断した朝鮮駐在日本公使の三浦は、1895年10月7日の夜から8日の朝にかけて、日本守備隊に王宮を襲撃させ、閔妃を虐殺させた。乙未事変である。

 事大主義者であれ何であれ、王宮を襲撃されて王妃を虐殺された事実に、朝鮮民族は怒りを覚えた。妃を殺された高宗はもとより、封建政府内でも反日気運が高まった。

 閔妃の虐殺を機に国王をかかしにして操ろうとした日本の意図は破たんした。

日本の後に続いた米国とロシア

 今度は、この状態を知った米国とロシアが、国王を操り朝鮮を支配しようとした。

 米国は1895年11月27日夜、王宮を襲撃して、国王をいけ捕りにしようとしたが、事前に察知した朝鮮軍が王宮の門前で迎え撃ち、米国の意図を破たんさせた。春生門事件である。

 ロシアは1895年2月11日、高宗と皇太子をロシア公使館に誘引拉致し、国王を脅迫しながら同公使館内で親ロ政権をでっちあげた。しかしロシアは、民衆の強い抗議によって翌年の2月20日に高宗を王宮に戻した。朝鮮王朝の親ロ傾向は強まるばかりだった。高宗は独立国家を装うために国号を大韓帝国にあらため皇帝を名乗った。

 日本にとっては、ロシアとの戦争なくして、朝鮮支配を実現できなくなった。当時の国力からすれば、ロシアと戦争できる状態ではなかったが、対ロ戦争に踏み切れば、米英が支援してくれるという判断のもとに、戦争の道を選んだ。

 日本は1904年2月8日、仁川と旅順でロシア艦隊を不意打ちし、陸軍先遣隊がソウルを占領した10日に、ロシアに宣戦布告した。(鄭誠哲、朝鮮問題研究者)

【訂正】前号5段2行目の「上州」を「長州」に訂正します。

[朝鮮新報 2005.7.8]