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〈本の紹介〉 靖国問題

 日本のネオナショナリズムを撃つ頼もしい論客として、この10年来の著者の活躍はめざましい。90年後半の日本の言論界に台頭した右派ナショナリズムの波に抗し、「戦後世代の日本人の一人」として、日本の戦後責任論を書き、語り、訴えてきた。

 そのなかの特筆すべき仕事として注目されたのが、戦争にかかわる責任を市民としてどう引き受けるかを示した「応答責任」という考え方であった。

 冷戦の終結以降、アジア各国の日本軍性奴隷制の被害女性たちが声をあげ、強制連行の被害者や遺族たちからの告発が相次いだ。

 「彼らの声は今を生きる日本人たちへの『呼びかけ』でもあった。その際呼びかけられた側には応答する責任が生じたと思う」と著者は主張する。

 こうした「応答責任」を果たすことによって、人は孤立から自らを救い出し、他者とのかかわりを維持しているのではないか、という考え方だ。

 本書もその意味で、戦後日本が置き去りにしてきた「靖国神社」問題に徹底的な分析を加え、この問題を追及するアジアの民衆の声に真しに応えようとする優れた一冊である。   

 「靖国」を具体的な歴史の場に置き直しながら、それが「国家」の装置としてどのような機能と役割を担ってきたのかを明らかにし、明快な哲学的論理でこの問題の解決の道筋を示した。

 「靖国」が日本の侵略戦争を美化し、それを聖戦と定義して、戦死者を英霊として祭り、顕彰する装置であることは論を待たない。本書は「靖国」信仰の鼓吹者たちが、遺族感情を悲哀から幸福へ、その悲劇を栄光へと仕向けるためにあらゆるレトリックを弄する様を鮮やかに浮き彫りにする。そうでなければ、国家は新たな戦争に国民を動員できなくなるだろう。小泉首相の「靖国」参拝や日本の国会議員たちの相次ぐ「靖国」詣でにアジア各国が厳しい警戒の目を注いでいる理由はここにもある。

 さらに本書は、一貫して日本の植民地主義を追及してきた著者ならではの視点で、「靖国」のもう一つの歴史をえぐり出している。日本政府や研究者が何の疑問もなく「先の大戦」というとき中日戦争(1937)からアジア太平洋戦争までの時期をさし、その間の戦死者は310万人とされる。しかし、「靖国神社忠魂史」には、それ以前の、日本の無数の戦争の歴史が、「靖国」の立場から記述されている。

 そこには日本植民地主義の歴史である、1874年の台湾出兵から82〜84年の「朝鮮事変」、日清戦争の「台湾征伐」、韓国併合前後の「韓国暴徒鎮圧事件」(1906〜11年)、満州事変後の「匪賊および不逞鮮人」の討伐(1931〜32年)など、朝鮮や台湾などの植民地獲得と抵抗運動弾圧のための日本軍の戦争が、すべて正義の戦争として記述され、そこで戦死した指揮官と兵士が「英霊」として顕彰され正当化されている。

 近代日本の植民地獲得のための対外戦争をすべて正当化する特異な歴史観は、日本の隅々に今も厳然と行き続けていることを本書はあらゆる資料を駆使しながら喝破していく。

 日本のメディアの「靖国」論議はかつての侵略戦争の実相には触れず、近隣諸国の批判に「反日」のレッテルを張るだけの稚拙なものに終始している。「靖国」を通して、日本の植民地主義と侵略戦争の本質に迫る著者の姿勢に強い共感を覚える。(高橋哲哉著)(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2005.7.11]