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〈本の紹介〉 「赤い鳥」文学賞受賞作 いちど消えたものは 李錦玉詩集

 李錦玉さんといえば、小学校国語教科書に掲載された「三年峠」「へらない稲束」など、在日コリアンの児童文学の書き手として、草分け的な存在という認識しかなかったから、若手の詩人たちを糾合した少年詩誌「みみずく」の誌上にその名前を見たときは、正直意外に思ったことを覚えている。そして、やはり言葉のインパクトに賭けようとしている感の強い同人たちの中にあって、その言葉のやわらかさ、気取りのなさといったことが印象的だった。この詩集でいえば、U「魚と鳥と」、V「初めて」に収められた詩編が、そうした印象とより重なるだろうか。「カラスと」や「キリン」といった詩にみられる対象との適度な距離感、それを見つめる自分自身への適切な距離感、「なかよし」「好き」といった詩から感じ取れる人間存在への肯定的な眼差し、それらは読者の心を打つといったありかたではなく、読者の心に寄り添い、言葉を共有していくという詩のありようを私たちに示している。

 だが、今回僕にとって、より印象的だったのは、T「樹」にもられた詩編だった。そのほとんどが、たった2ページの短い言葉の連なりなのに、なにかとても奥行きがあるというか、一筋縄ではいかないというか、ひとつの詩の中でいろんな表情を見せてくれるのだ。それは多分、連と連との間の空白に隠された飛躍の自在さではないか。一転「ばら園の季節」では、叙述的なナレーション風の言葉を思いっきり重ねたあとで、最後の2連でそれらを一気に額に入れ、映像にし、もう一度早回しで見せてくれ、現実に戻してくれる。詩というジャンルの作法にまったく不案内な僕などは、こんな言葉の魔術のようなことができたらたのしいだろうなあ、と単純に思ってしまうが、書くとなると、そうもいかないのだろうか。いやいや、やはり詩人にとってもそれは快感であるに違いない。

 表題詩の「いちど消えたものは」は、この詩集では数少ない「怒り」がモチーフの詩である。だが、「一度消えたものは人々の記憶の中からも/翼をたたんで/はばたくことはなかった」という結びから、絶望や諦念といった感情は感じられない。その事実を受けとめる〈わたし〉という主体との、長い厳しい向きあいが、そこにすらある種の「希望」を見出すことを可能にしているのだろうか。(藤田のぼる児童文学評論家、日本児童文学者協会事務局長)

[朝鮮新報 2005.7.11]