〈朝鮮歴史の断片E〉 伊藤博文と「乙巳5条約」 |
外交権はく奪、事実上の植民地に 露日戦争が終結した3カ月後の1905年11月9日、伊藤博文がソウルに現れ、天皇の「勅書」を高宗に渡した。朝鮮が日本の「保護」を受け入れるなら、王室の「権威と安寧を守る」とする内容だった。王室の存続しか関心のなかった高宗は受け入れを表明した。 高宗の態度に満足した伊藤博文は、同15日に「乙巳5条約」の締結を迫った。さすがの高宗も外交権はく奪の項目に驚き、その判断を内閣に一任した。 日本軍が王室を二重三重に包囲する中で、伊藤博文の「指導、監督」のもと、11月17日に内閣大臣会議が開かれた。 売国条約だとして大臣3人は反対したが、侵略者の手先になった学部大臣の李完用が賛成すると、4人の大臣が追従した。伊藤博文は、8人の大臣のうちの5人が賛成したとして、条約の締結を宣言した。 「乙巳5条約」の第1条は、日本が東京の外務省を通じて朝鮮外交を管理指導する。第2条は、現存する朝鮮の外交約束を日本が責任を持つ一方、日本の承認なしに朝鮮は外交約束できない。第3条は、朝鮮統監が朝鮮外交の責任者である−となっている。 外交権の剥奪は事実上の植民地化を意味する。朝鮮は今からちょうど100年前に、詐欺と脅迫の方法で、日本の植民地にされた。 日本の不当性訴えたハーグ密使事件 李儁、李相ソル、李瑋鐘の愛国者たちは、07年6月にオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に参加して、日本の侵略の不当性を訴えようとした。王室をないがしろにする日本に不満を持っていた高宗は、国印と自身のサインによって、彼らが国王の密使であることを保証した。 ハーグに到着した李儁らは朝鮮代表として会議に参加しようとしたが、日本代表が「朝鮮には外交権なし」としてこれを妨害。米英代表も日本側の肩を持った。 会議に参加できなくなった彼らは、国際記者協会や出版物などを通じて日本侵略の不当性を訴えたが、その声は黙殺された。失意のうちに李儁は、会議場の前で「朝鮮独立万歳!」を叫びながら割腹自殺した。 李完用らがハーグ密使事件の責任を追及して高宗に退位を迫り、高宗が拒否すると、伊藤博文は07年7月18日に軍隊を王室に引き入れて再び退位を迫った。やむなく高宗は19日の朝に息子の李拓(純宗)に王位を譲った。 27代国王・純宗は、侵略者たちによる毒殺陰謀の後遺症のため役割を果たせず、大韓帝国最後の皇太子になる英親王(李垠)は8歳のときに日本皇室と政略結婚を強要された。 英親王が「監禁」された場所は東京の赤坂だった。近所の人たちが「あそこに朝鮮のプリンスがいる」と噂したことが、プリンスホテルの由来だと言う説もある。 高宗の退位によって、500年以上も続いた朝鮮王朝は、事実上の終焉を告げた。(鄭誠哲、朝鮮問題研究者) [朝鮮新報 2005.7.15] |