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〈朝鮮歴史の断片F〉 「韓日併合条約」で抹殺

安重根、伊藤博文に復讐の命中弾

 朝鮮王室を崩壊させた初代統監の伊藤博文は、1907年7月23日の夜、李完用を自宅に呼びつけ、内政権を剥奪する「丁未7条約」の締結を要求した。李完用は翌朝、討議なしに内閣総理大臣名で「批准」した。合法的な手続きにのっとったものでなかったことは明白だ。

 @政治、行政、司法のすべてを統監の指導監督のもとに行う、A朝鮮政府官吏は統監の承認なしに登用できない、B朝鮮政府官吏に日本人を登用する−というのが「条約」の内容だから、まさしく内政権の剥奪である。

 外交権に続く内政権の剥奪は、完全な植民地化を意味する。

 安重根(1879〜1910)は、負債を口実に植民地化を謀る日本に抵抗するための国債補償運動、国力をつけるための愛国文化運動などを行ったが、失敗するや反日義兵闘争を行うためにロシア沿海州に亡命した。そのときに伊藤博文の「満州視察」が報道された。

 1909年10月26日午前9時、伊藤博文がハルビン駅に到着するという情報を得た安重根は、隠密行動で駅に潜り込み、帝政ロシア軍と封建中国軍の護衛網をかいくぐり、汽車から降りてきた伊藤博文に拳銃で復讐の命中弾を浴びせた。

 伊藤博文を即死させた安重根は、「朝鮮独立万歳!」を絶叫しながら、朝鮮民族の不屈の魂を内外に誇示した。

法的根拠ない不法な「併合条約」

 朝鮮民族の独立運動に恐れをなした日本帝国主義は、朝鮮の存在を抹殺する動きに出た。1910年8月1日からソウルに非常戒厳令を布き、22日に寺内・朝鮮総督と李完用の間で「韓日併合条約」を「締結」した。侵略者と売国奴は、朝鮮民族の反抗を恐れ「条約締結」を1週間も隠し、8月29日に公表した。

 「乙巳5条約」と「丁未7条約」で朝鮮が日本の完全な植民地になったとすれば、「韓日併合条約」によって朝鮮はその存在を抹殺されたことになる。

 「韓日併合条約」は、密室「締結」された不法「条約」だが、その後の資料発掘でも法的根拠のないことが明らかになった。

 伊藤博文の脅迫で王位から退位するときに高宗は国印をを隠した。この国印は、1919年に上海で樹立された「大韓民国臨時政府」によって保管された。

 法的に見ると「韓日併合条約」が「締結」されたとき、朝鮮側の最高権力者は純宗王であり、日本側は天皇になる。日本帝国主義の毒殺陰謀の後遺症のため、純宗は条約文にサインすらできなかった。

 朝鮮側の国印と国王のサインがなかったので、日本側も国印とサインを記せなかったのだろうか? 事情はどうあれ、国印と王のサインのない「条約文書」は紙切れにすぎず、「韓日併合条約」は幻の条約になる。(鄭誠哲、朝鮮問題研究者)=おわり

[朝鮮新報 2005.7.22]