朝鮮解放60年−日朝つなぐ人々−I 随筆家 岡部伊都子さん |
今年春、滋賀県・能登川町立図書館で岡部伊都子写真展「古都ひとり」が開かれ、会場には連日、日本各地から多くのファンが詰めかけていた。 会場には若き日の岡部さんの、背筋をピーンと伸ばした美しい和服姿の写真も掲げられていた。 1954年以来、執筆生活に入った岡部さん。離婚を経て、経済的にも自立して、文筆で生きていこうとする張りつめた緊張感が漂う一枚だった。 岡部さんの書くことの原点は、戦争の犠牲者となった兄とそれに続く婚約者の「死」だった。婚約者は出征の前夜、2人だけで話した時に「この戦争はまちがっている。天皇陛下のために死ぬのはいやだ。君のためなら、喜んで死ねる」と言ってくれたという。しかし、幼い時から軍国主義教育を受けていた岡部さんは「私なら喜んで死ぬけれども」と冷たく答え、戦地に送り出してしまった。 その時の痛恨の思いが、敗戦後もずっと岡部さんを苦しめた。戦後、何度も婚約者の終焉の地・沖縄に通って、戦争の実相と婚約者の最期の様子を確かめた。 昨年6月、放映されたNHKのETV特集「消えぬ戦世よ〜随筆家・岡部伊都子の語りつづける沖縄」が、岡部さんの歩みを見事に描き、大きな反響を呼んだ。 当時の自身を剥ぎ取り、容赦なく追及する姿勢。戦争を否定していた彼が死に、ぬけぬけと生きている自分。時代や教育のせいにするのではなく、自分を見つめ、向き合い、自分で始末しようとする潔さ。その覚悟の深さが、岡部さんの人となり、ペンの筆先までを貫く。
「消えぬ戦世よ」のラストシーンは、岡部さんの125冊目の著書「朝鮮母像」(藤原書店)を亡くなった両親、戦死した兄に捧げる印象的な場面。岡部さんにとって「朝鮮母像」は、半世紀にわたる文筆活動の集大成そのものなのだ。 岡部さんの文章の真髄をなすのは、日本文化の祖流こそ「母なる朝鮮」であるという深い思いであり、それを蹂躙し、ねじ伏せた日本への強い怒りであり、理不尽な差別への強い憤りと悲しみである。 「人が人を蔑んではいけない。人が人を殺してはいけない。戦争を起こしてはいけない」 心の底から沸きあがってくる言葉だけを語り、書き続けてきた比類なき足跡。 65年頃から続く脅迫、無言電話も後を絶たない。 でも、どんな脅しにもひるまない。怖くない。 「脅迫電話をもらうたびに『私はまだ、節曲げてへんで』と確認できる。この国で覚悟せなんだら、何も言えへん。何も書けへん」と。 過去を隠ぺいし、侵略の歴史を美化しようとする日本の動きについて岡部さんは「私はいのちが絶えるまで本当のことを言い続けます」とキッパリと語る。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.8.2] |