朝鮮解放60年−日朝つなぐ人々−J 酪農家 高橋良蔵さん |
高橋良蔵さん(80)は1925年、秋田県の南部・雄勝郡羽後町貝沢で生まれ、育った。美しい景観とおいしい水に恵まれた米どころ。東に奥羽山脈が連なり、西空には美しい鳥海山が眺望できる。ここは、明治の時代から多くの篤農家を生んだ土地としても名高い。高橋さんは戦前からの農民運動のリーダー。地道な酪農家でもある。実直な人柄を慕う、県内外の仲間は数知れない。町議会議員、県出稼組合書記長を長く務め、農業の傍ら「百姓宣言」などの著書も数多く持つ。 訪朝は、85年、91年、95年、99年の4回。95年の朝鮮の大水害に際しては、自ら筆を執り、救援米や医薬品を朝鮮に送るよう訴える緊急アピールを出した。それに賛同した農村の仲間たちから救援物資が続々と集まり、連続3年間、朝鮮に届けられた。戦後の日本農業の激変の荒波をくぐりぬけた体験が、朝鮮農業への「応援」に駆り立ててきた。朝鮮から農業技術者を招聘したり、さまざまな穀物の種や果物の苗木、そして山羊まで贈った。 「戦争、災害…。次々と襲ってくる災難の克服のために、国をあげて必死になってがんばっている姿を見ると、応援しなければ」
拉致報道以降、日本の朝鮮バッシングは止まるところを知らない。「拉致事件の解決が先決で、それまでは食糧支援をすべきではない」などの主張が日本を覆う。その声は、東北の農村にまで浸透しつつあるという。訪朝のたびに、公安が訪ねてくる。そんな執ような嫌がらせにも怯まない。 高橋さんは「この事件を利用して、日本が戦前のような軍事大国化の道へ突き進もうとすることに警戒心をもつべきだ」と語る。 「自然災害から、まだ朝鮮は復興がなされていない。集中豪雨による河川の氾濫でダム、発電所、河川、用水路などが甚大な被害を被った。それに加えて、戦後ずっと、大国によって経済封鎖されたため、肥料、農薬、石油などが入らなくなった。トラクターも田植機も動かなくなって、食糧生産がより困難となり、コメ、トウモロコシも、かつての半減どころか、村によっては1/3に減収しているところもあった」 天災と経済封鎖の悪循環によって、2200万人の人口を抱える朝鮮が食糧危機に苦しむようになったと、現場をつぶさに見た経験から指摘する。 人間が生きていくうえで、最も大切な食糧を生み出す農業。農民たちの置かれた状況は違っても「米をつくりたい」という情熱に国境はない。高橋さんは訪朝のたびに見た風景を思い出す。
「協同農場のどこを歩いても、『険しい道を笑いながら乗り越えよう』を合い言葉に、『食糧を増産することに生き甲斐を求めながら』、黙々と働いている農民の姿に清々しさを覚えた。幼い学童たちが参加して、広い道路の沿道の両側、10キロもの長い距離に延々とコスモスを植え、色とりどりの美しい花を咲かせていた」 訪問した学校の子供たちも十分な食糧がない中で、秩序を乱すことなく、明日に向かって生きており、表情は明るかった。まさしく「険しい道を笑いながら乗り越えよう」と必死に闘っている姿に、朝鮮復活の手応えを感じたと高橋さん。 「助けたり、助けられたりする。それが人が生きていくうえでの基本だ。まして、侵略戦争の責任と償いをいまだに果たしていない日本が、いますべきことは、隣国の人々に温かい手をさしのべることだ。とはいえ、民間のできることには、限界がある。それでは追いつかない。一日も早く、日朝国交正常化を実現して、政府もしっかりした本格的な支援体制をとるべきだ。それが、まず日本が取るべき道だと思う」 取材には幼なじみの元雄勝酪農農協参事の佐藤恒治さん、雄物川漁業組合長の坂田信栄さんも同席してくれた。共に朝鮮を訪問した仲間でもある。2人は日本に吹き荒れる北朝鮮バッシングの風潮に心を痛めながら、「こんな最悪の状態はいつまでも続かない。南北朝鮮のような和解と平和の時代を、日朝間につくり出さねば」と力を込めて語った。=おわり(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.8.4] |