〈人物で見る日本の朝鮮観〉 石原莞爾 |
石原莞爾(1889年〜1949年)は、昭和期を代表する陸軍軍人の一人である。石原は、関東軍参謀の時、柳条湖事件を起こして満州事変に拡大し、武力をもって全満州を占領、まもなく、偽満州国を建国させた張本人として、世の注目を浴びた人物である。同時に彼は、世界最終戦論や、東亜連盟構想という近代陸軍でも世界戦略を持った、稀にみる軍人であったと言われる。 この戦略で、朝鮮はどのように扱われるか。この稿では特異な彼の戦略論での朝鮮の位置づけと朝鮮認識を見てみたい。 石原莞爾は、現在の山形県鶴岡市で、父啓介、母カネイの次男として生まれた。家は、代々庄内藩大名酒井家の家臣であった。庄内藩は、幕末佐幕派として官軍と戦い降伏する。維新後の庄内藩の苦しみが始まる。後、父啓介は巡査に採用され、任地を転々とするが、莞爾は父の任地が移るたびに、小学校を転々としている。やがて庄内中学校に入り、2年生の時、仙台陸軍幼年学校に入学、陸軍士官学校を卒業、1909(明治42)年12月、歩兵少尉任官。翌年4月、韓国守備のため朝鮮に行き、春川守備地に着任、満2年間を朝鮮で過ごす。この間、朝鮮併合が行われているが、石原はこの時朝鮮と初めて接点を持った。その後の陸軍大学入りや、ドイツ留学などの、彼の軍歴については、大幅に省略したい。一言でいって、エリート陸軍将校の誕生である。 1928(昭和3)年6月4日早朝、大元帥を称し、中国東北部(満州)を支配していた張作霖が、北京から満州への帰途、奉天郊外で、乗っていた列車を爆破され爆殺された。張爆殺の黒幕は、関東軍の高級参謀河本大作大佐である。河本は職を解かれ、日本本土に呼び戻され、後任は、板垣征四郎大佐が高級参謀に就任し、石原莞爾は、関東軍作戦参謀となる。ここに板垣、石原コンビが生まれ、満州事変、偽満州国建国と舞台が大きく転回し、やがて日中戦争となり、太平洋戦争となり、敗戦となる。しかしこの時期、日本軍部にとって満蒙(満州と蒙古)問題の解決は、焦眉の急として認識されていた。また政治家も「満蒙問題は…わが国民の生命線である」(松岡洋右、第59議会、1931年1月23日)と絶叫した。 石原は謀略により満州に戦争を起こすことを計画する。「軍部にして団結し、戦争計画の大綱を立て得るに於いては、謀略により機会を作製し、軍部主導となり国家を強引する」(「満蒙問題私見」 1931年5月)という。この4カ月後、柳条湖事件がおきる。関東軍は、満鉄の線路を爆破しておいて、中国軍がやったと言いがかりをつけ戦闘を拡大させた。満州事変である。やがて日本軍による全満州の占領となり「五族協和、王道楽士」を謳う、偽満州国の建国となる。石原は、ほかの高級将校のように満蒙問題解決は、国防上というだけでなく「朝鮮統治を強固にするもの」という一項を加えている。いかに石原の朝鮮に対する関心が高いかが知れる。石原の理想は、国防国家の建設である。この理想を支える柱が、@世界最終戦論でありA東亜連盟構想である。世界最終戦は、日本がアメリカと戦って勝利するというものであった。石原は、五族(日本、満州、漢、蒙古、朝鮮)協和を説き、アジア諸民族の独立を主張した。東亜連盟の中心課題である。しかし、石原の東亜連盟論は、二つの決定的破綻要因をかかえていた。一つは朝鮮問題、二つ目は天皇の位置づけである。「朝鮮民族は、日本民族と人種的に極めて近く、文化もまた常に交流してきたのである。…民族自決と称して、分離せんとするは、世界の大勢に逆行するものである」(「東亜連盟運動」石原莞爾選集6)。 石原は、口では諸民族の独立を説き、民族平等を説きつつも、朝鮮民族の独立は絶対許容しない。朝鮮を独立させずして、諸民族の平等、独立を説教する。これでは、アジア諸民族の信を得ることはできない。これに天皇の問題が重なる。「天皇は世界の唯一の君主であらせられること、天皇に依って世界が統一せられ…東亜の諸民族が天皇の御位置を心から信仰し得た時に、初めて東亜連盟が完成するのである」という。東亜連盟の完成は、アジア諸民族が天皇を心から信仰した時、というから、その偏見的確信は、救いようがない。石原の世界最終戦論と東亜連盟構想は、そもそもの出発点から崩される因子をはらんでいたのである。「人種的に近き日韓両民族がなるべく速やかに融合の実を挙げることは喜ぶべきところである。これを朝鮮民族の滅亡と考えるものあるならば、甚だしい誤解」と言ったり、「満州事変後、民族協和に共鳴し、民族闘争を清算し、協和主義に転向せる朝鮮同胞の中には、日本民族の無理解に心平かならず、ひそかに民族協和の美名にあざむかれたる感を抱いている人も少なからざるにあらずや」と言うが、これはいわゆる、語に落ちた話である。 東亜連盟には、少なからざる朝鮮青年が参加している。在日に限っても、曹寧柱、大山倍達などの名があがる。曹はかつて石原に「(朝鮮が)どうして独立でなく自治政府なのか」(「石原莞爾のすべて」)とたずねたという。石原は、「制約の義務」なる語をもちだし、「民族のわがままが通る世の中ではない」と言った。日本だけは許される。身勝手な話ではある。(琴秉洞、朝・日近代史研究者) [朝鮮新報 2005.8.10] |