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「世界遺産 高句麗壁画古墳展」開幕 世界史に輝く華麗な文化

 朝鮮民主主義人民共和国の高句麗壁画古墳の魅力を最新の写真で紹介する「世界遺産 高句麗壁画古墳展」(共同通信社主催)が13日から開幕した。そのオープニングセレモニーが12日、展覧会場の東京・赤坂・国際交流基金フォーラムで開かれ、石川聡・共同通信社社長、総監修にあたった平山郁夫・東京芸大学長、野口昇・日本ユネスコ協会連盟理事長、多田昭重・西日本新聞社社長、総聯中央の南昇祐副議長をはじめとする来ひんと関係者ら約100人が出席した。

高句麗壁画古墳の展示品に見入る出席者たち(12日、国際交流基金フォーラム)

 セレモニーであいさつに立った石川社長は「04年7月、高句麗古墳群のユネスコ世界遺産登録後の11月、外国報道機関として初めて共同通信社取材団が訪朝、安岳3号墳、徳興里古墳、江西大墓など主要な6基の古墳を詳細に取材、撮影できた」と報告。そして、「アジアに軸足を置く国際通信社として60周年を迎えた共同通信の記念事業である本展が、東アジアの相互理解と文化交流の一助となることを願う」と述べた。

 また、ユネスコ親善大使である平山学長は「高松塚やキトラ古墳の四神図は、そっくりそのまま高句麗や百済の壁画につながっている。いかに関係が密接であったかを示す文化的に意義のある展覧会に多くの人に見に来ていただきたい」とあいさつした。

立体感あふれる展示にどよめく会場

 平山学長は68年秋の院展に出展した「卑弥呼壙壁幻想」について回顧しながら、次のように語った。

 「この作品は邪馬台国の卑弥呼の墓室に、もし壁画が描かれていたらと、幻想的に自由に制作した作品である。服装などの参考文献として高句麗古墳壁画の論文集を調べた。参考写真として、水山里古墳壁画の女性像図が掲載されていた。チマ・チヨゴリの女性像である。それから5年後の73年に飛鳥地方の高松塚古墳の壁画が発見された。女性群像の写真を見て驚いた。私が水山里古墳壁画を参考にして描いた女性像と同じであった」

世界の美術史にも特筆される安岳3号墳の華麗な古墳壁画

 当時、受けた大きな衝撃について語りながら、同学長は「高句麗壁画が雄渾であるとすれば、高松塚古墳の四神図はそのお手本から一生懸命に描いた感じが伝わってくる」と語った。

 そして、現在まで10回訪朝し、高句麗壁画保存研究所の建設を支援してきたと指摘、「日朝関係は厳しい状況にあるが、両国の正常化が実現し、一日も早く本格的な国際協力ができるように願っている」と結んだ。

 セレモニーでは、朝鮮対外文化連絡協会と朝鮮中央通信社から寄せられた祝賀メッセージが披露された。

 最後に来ひんらによるテープカットが行われた。なお、この展覧会には朝鮮大学校・歴史博物館所蔵の徳興里古墳復元模型(原寸大)も貸し出され、展示されている。

高句麗壁画古墳

 平壌と南浦市、黄海南道の安岳郡一帯にわたる。現在まで90基が発見され、発掘調査されている。高句麗は紀元前3世紀頃生まれ、その領域は今日の中国・吉林省と遼寧省の南部および北部朝鮮を占める広大な地域に及んだ。北東アジアにおいて一大強盛を誇った高句麗の繁栄が、「高句麗壁画古墳」には鮮やかに刻まれている。

 壁画古墳とは、死んだ王や王妃、大貴族、功臣たちを埋葬する際、墳墓の壁などに掘り刻まれ描かれた絵画、文様などをいう。高句麗の壁画古墳は3世紀から7世紀まで、とぎれることなく連続的に描かれた。約400年間、連綿と古墳壁画が描かれたのは高句麗だけであり、世界でも類例を見ない。

 高句麗の王侯貴族は、霊魂の不滅を信じ死後もなお永遠に生きることを望み、生前と同じように生活することを願い、室内での政事、日常の暮らしや娯楽、遊び、風俗、習慣まで描かせた。騎馬軍団の行進、勇壮な狩猟、武術、戦いの姿も活写された。

 さらに、「水山里壁画古墳」のような華麗な女人像も出現。時代が進むにつれて、絵画の傑作が次々と生み出されていくようになり、6世紀末から7世紀初にかけて築かれ、描かれた南浦市にある江西大墓、中墓の四神図は、傑作中の傑作といわれている。

[朝鮮新報 2005.8.20]