〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−2〉 朝鮮女性初の文学学士 河蘭史 |
河蘭史は、朝鮮女性として最初に文学学士学位を取得し、女性教育、民族運動を幅広く展開した先覚者である。 平壌で生まれた彼女は若くして前妻の子を持った仁川別監(管理職)河相驥の後妻として入った。 嫁いだ後夫の職位も管理(税関長)の地位に上り生活にもゆとりが出てくるが、彼女はそんな贅沢な生活だけに満足しなかった。 港町である仁川には日本、中国を通して西欧の新しい文明がいち早く入ってきた。ソウルで梨花学堂が設立したという知らせも入ってきた。押し寄せる開化の波に彼女は心をとらわれたのであった。 未来を開拓する先導者になろう、この時代の先導者に。そのためにはまず学ばなければならない。こう思った彼女は、梨花学堂の門をたたいた。学堂長の前で、彼女は持っていった灯を吹き消していった。 「何も知らない私たちは、灯りの消えた暗闇の中にいるようなもの。どうか学問の明るい光をください」 哀願する彼女の顔をじっと見つめていた学堂長はいった。 「いいでしょう。入学しなさい」 こうして既婚者である彼女の入学が承諾された。 1896年、梨花学堂の学生となった彼女は、キリスト教徒となり名前も本姓、金氏から夫の姓を取って河蘭史(英語名Nansyの漢字音訳)と称した。 母親たちの啓蒙 在学中彼女は娘を産んだ。夫は学費はもちろん、幼子を家族に預けて学堂に通う妻を助け、子供の面倒をも見てくれる良き理解者であった。 夫の積極的な援助と家族の助けにより1900年、彼女は1年間日本(慶応義塾)に留学、1902年には米国に渡り、オハイオ州にあるキリスト系のウエスリアン大学で英文学を専攻した。そして4年後の1906年、ついに学士学位を取得する快挙を成し遂げた。 帰国後彼女は、尚洞協会の建立に力を傾け、英語や聖書を教えながら不遇な女性たちを目覚めさせていった。 梨花学堂内に大学科が新設された1910年9月、彼女は教師として抜擢される。朝鮮人教師は彼女ただ一人だけだった。西欧の宣教師たちにも引けを取らない彼女の英語能力は、宣教師と学生間の意思疎通はもちろんのこと、寄宿舎初代舎監、総教師(教頭)の責務を果たすにおいて力強い手段となる。 彼女は、李星會が組織した学生自治団体を指導、9カ所の梨花付属普通学校で母親教室を開き育児法、家庭医学などの啓蒙講演も展開した。 厳格で、礼儀正しく、仲むつまじさを生活信条として何事にも完璧を期した彼女を学生たちは「ホランイオモニ」(トラオモニ)と呼んだ。当時の政治、啓蒙活動の指導的人物であった尹致昊と女性教育論争を繰り広げたのもこの頃である。 1915年、実の娘子玉が急死、大きな悲しみに遭うが、翌年ニューヨークで開かれた世界監理教総会に朝鮮女性代表として申興雨と共に参加、総会後には日本の植民地政策、朝鮮独立の正当性について講演して回った。 毒殺疑惑 1918年、第一次世界大戦が終わり世界のあちこちで民族抵抗運動が広まるなか、皇帝高宗は日本の虐政を世界に訴えようと息子、義親王を1919年パリ講和会議に派遣する計画を練る。この重大な任務を米国留学時代から義親王を良く知る河蘭史に与えた。しかしこの計画はこの年の1月、突然の高宗の崩御により実現できなかった。2月、日本に留学していた黄愛徳がパリ講和会議に送る女性代表として河蘭史を出国させるためソウルに着いた時、彼女はすでに中国に発ったあとであった。そして北京に住む同胞が催した歓迎晩さん会で食べた物があたり急死した。 葬儀に参列した宣教師ベッカーが、遺体は真黒に変質していた、夫、河相驥が妻は独立運動を妨害する親日の輩に毒殺されたといったこと、日本のスパイとして活躍した「貞子が彼女を尾行、毒殺したとの噂が広まったことなど、彼女の死は明らかに何者かによる毒殺であったことを物語ってくれる。 明かりを求め、闇に葬られた女性である。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) 河蘭史(ハ・ランサ)(1875〜1919)梨花学堂を経て1900年から日本、米国に留学、文学学士学位を取得。帰国後は梨花学堂を中心に民族教育を展開。宣導師としても活躍する一方、民族意識を鼓吹。1910年以後、国内外で独立運動に加担。要視察人物とされ1919年北京で変死。 [朝鮮新報 2005.8.21] |