〈人物で見る日本の朝鮮観〉 宇垣一成(上) |
宇垣一成(1868〜1956)は、軍人で陸軍大将、日本陸軍の大立物であり、政治家でもある。明治元年に生まれ、19歳のとき陸軍士官学校に入学し、8.15敗戦後の1956年に88歳で没するまでの宇垣の生涯は、近代天皇制下の日本陸軍の機構のなかで、その生成発展と成熟(よくも悪くも)、そして「光輝ある皇軍」の敗北による終焉にいたる、いわば全日本陸軍の功罪を一身に体現したような趣さえあるものであった。 宇垣一成は、臨時代理期を含め、二度にわたり朝鮮総督の任につき、合わせて約6年間、朝鮮民族のうえに君臨した。その宇垣の朝鮮認識をみることにしたい。 宇垣は、岡山県赤盤郡潟瀬村大内で、父杢右衛門、母たかの五男として生まれた。当時は農民だが、先祖は戦国時代、3万石位の城主であったという。後に一成と改名したが、幼名は杢次といった。父は、彼が生まれた年に死去したので、5人の子供をかかえた母の苦労は並大抵ではなかった。幼時、祖母にいろいろな話を聞いたが、子供心に残ったのは、日吉丸、後の太閤秀吉の話、日蓮上人の話、大塩平八郎の話などであったという。村の小学校を卒業後、母校の代用教員になり、教員検定に合格して隣村の小学校の校長となる。この時期宇垣は、漢学を学び、英学塾に通って猛勉強を続けている。 彼の宿望は軍人になることであった。やがて上京し、明治20年、陸軍士官学校への入学を果たす。これより宇垣の、すえは大将を目指す陸軍大学校、二度にわたるドイツ留学など、華麗ともいうべき軍歴が展開されるが、これは大幅に省略したい。朝鮮との接点は、日露戦争の時、少佐で師団参謀として北部朝鮮に行った時である。 日露戦争後、宇垣は「日露戦役に於いて習得せる教訓」と題する97項目の文書を書いている。この中で、朝鮮については14項目を割いている。そのLで「韓国経営の第一着手は、日本の威権、利権を彼国に扶植するにあり」(下略『宇垣一成日記』@ みすず書房)とある。朝鮮には、軍事的威力をもって対し、利権を獲得せよというが、この考えは何も宇垣の独創ではない。すでに長谷川好道が韓国駐箚軍司令官としてソウルに乗り込み実践していたことである。当時の軍事指導者も政治家も、全く同じことを朝鮮について言おうとしていた。要するに宇垣も長谷川も、徹底した侮蔑感を朝鮮民族に対して持っていたのである。そのMで宇垣は、朝鮮は植民地にしても「大規模な植民地」ではないので「遠く之を求むれば、亜米利加及び南洋諸島の如き、尤も有望なるものなり」という。米国を日本の植民地にしたいとの考えは、宇垣独特のものであろう。そのNで満州および烏蘇利方面を植民地にしたいが、そこで「韓国は軍事上橋頭堡的に経営せざる可らず」という。つまり朝鮮は、大陸侵略の軍事的通路というのである。そのMで宇垣は、「朝鮮国民ほど惰弱、無気力なるの人種は宇内少なかるべし…斯の如き人民は、世界の発達を妨ぐることすくなからず、今日に至るまで優勝劣敗の世に処して斯の如き国の存在ありしは実に不可思議」という。侵略民族にここまで言われると、蔑視観の集中的発露として、その思想的根底と政治的思惑を問題にしないわけにはゆかぬだろう。 朝鮮における「3.1独立運動」は、日本支配層を驚倒せしめたが、これに関連して宇垣は、「今日朝鮮に於いて自治や独立を要求する所のものは、少数の旧官吏両班と所謂政治屋及びデモ志士の連中である。…此等の輩の声を真に朝鮮全体の叫びなりと思ふのは非常の誤りなり」と言い、「弱虫ほど過去を思い、怨みを忘れざる特性を有している」と斬り捨てる。 宇垣は朝鮮人民の動きから何の教訓も得ていなかった。そのうえ「朝鮮の独立問題。軍事上より言えば、朝鮮は日本国防の第一線である。…日本の自衛上軍事関係に於いて之を分離せしむることは出来ぬ」と言いきるが、これは朝鮮独立の絶対的否認である。 また「朝鮮人は愛蘭人に似て、感傷的衝動的の人間である。しかしながら、彼の過去の歴史は、余り追懐欣慕するだけの価値あるものでない」と。言ってくれるものだ。今度は、朝鮮の歴史に対する否定である。客観的には己の無識を証するものだが、彼にはその意識さえない。どこまでもナメきっている故である。1923(大正12)年9月の関東大震災は、宇垣が陸軍教育総監部本部長の時に起こった。「9月1日是れ如何なる凶日ぞや」と彼は書き、「天地鳴動」する中を「赤坂離宮に殿下のご機嫌を奉伺す」とある。「殿下」とは、後の昭和天皇である。「非難の士民は右往左往、此の如き惨憺たる景況を三日にいたるまで継続し、渇を訴へ、餓に苦しむの声、至る処に起こり、親を見失ふの子、子と離れたる親、近親の探すの子供、名所に散見す。悲愴の状言語に絶す。…此間、不逞鮮人、不平の輩の乗ぜんと策しある現況に於いて、殊に然りとす」これは9月3日午後に書かれたものである。宇垣は、朝鮮人暴動流言を事実と思ったのである。明敏宇垣には、朝鮮人も同じ震災で苦しんでいるという状況は全く見えなかったのである。(琴秉洞、朝・日近代史究者) [朝鮮新報 2005.9.7] |