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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 宇垣一成(下)

 宇垣は、非常に自負心の強い男である。それに、実に筆まめで、軍務多忙の中で「随想録」というぼう大な「日記」を3大冊も遺している。この「日記」によれば、日本国は、必ず自分を必要とする時が来ると信じている。彼は、総理大臣になって、日本を苦境から救うつもりであった。つまり、宇垣は政治的軍人である。

 宇垣は若い時から、陸軍中枢部の要職を歴任し、後に五代の内閣で陸相をつとめた。陸軍大臣5回というのは宇垣が初めてであろう。彼は中佐の時、陸軍近代化のための各兵科操典類の改定にあたったり、大佐の時、陸軍省軍務局軍事課長として、当時実現が難しいとされた朝鮮常駐の二個師団増設に力を割いた。

 そのほか、シベリア出兵問題、国家総動員問題、郡民一致問題などに関与するが、なかでも有名なものは「宇垣軍縮」であろう。

 世界の軍縮の流れの中で、日本も軍縮を行うことになったが、陸相宇垣は四個師団を削減して、浮いた金で飛行隊、戦車隊、化学兵器などの充実に回して、陸軍近代化、機械化に使い、むしろ軍の力を増大させた。

 1927(昭和2)年4月、斎藤実朝鮮総督がジュネーブの海軍軍縮会議に、日本全権となった留守中の総督臨時代理に、宇垣が任命された。宇垣は日記に「日韓併合の有終の美は、日鮮人を渾然融和せしめて、一体たらしむに在り。……先決としては、相互に差別の観念、猜忌の感情を除去することが肝要である」と書く。そして「朝鮮人には、歴史的に彼等の深き愛着を惹くべき殆ど何者も有しては居らん」とも書くのだから、これでは宇垣総督自身が根本において「差別の観念」の所有者なのを証明したことでもある。また、次のようにもいう。「朝鮮人は、歴史と環境に馴致せられ来たので、含垢(恥をしのぶこと)隠忍の力は、強きも、他の半面には、執拗陰険にして陰謀を好み、何等かの機会あらば、平生の怨恨を晴らし、何者かの助力あらば、復仇せんとするの習性を有す。従って今日の平和は、朝鮮人が衷心よりの悦服によりての平和にあらず」との認識であった。

 朝鮮に渡った宇垣は、7月内鮮懇話会員に向かい、日本人のたとえば日清、日露戦時の朝鮮認識について「朝鮮なるものは、山は禿、田畑は痩せ、虎は山野を横行し、一部の貴族学者は陰謀排擠是れ事とし、大部の者は白衣をまとい、長煙管をくわえて、悠然、豚小屋然たる所に、閑眠を貪り、栗や稗を主食とし」というものであったが、今は正当な理解をすべきだといい、「内地人の朝鮮不理解の適証は、大震災当時に於いて鮮人襲来の蜚語に驚愕して、周章したる一事だけで十分である」と付け加える、朝鮮人暴動流言を信じたのは、前稿で見たように宇垣自身である。

 8月5日の項に「日韓の併合は、形式上立派なる両国の合意から成立している。その裏面に於いては、多少貴族輩の売国行為に類したることや、日本実力の強圧がありたかも知れぬ」とあるが、これはおもしろい。

 10月、斎藤総督の復帰により、宇垣は臨時総督の任を解かれる。宇垣が再び総督となって朝鮮に赴任するのは、1931(昭和6)年7月である。宇垣は暇乞いの参内をし、天皇に朝鮮統治の方針を述べている。

 「其一は、内地人と朝鮮人との融合一致、所謂内鮮融和に関して、更に大に歩を進むべく努力致し度考えております。……其二は、朝鮮人に適度にパンを与うることであります。……統治に当たりましては、……所謂恩威並行、寛厳宜しきを制し、以って日韓併合の宏謨に副ひ、聖明の御寄托に答へ奉らん」

 朝鮮人に適度にパンを与えるとは、ありがたいご託宣である。これに「日韓併合の宏謨に副ひ」とあるが、これは日本人同様に「一視同仁」で朝鮮人を天皇の「赤子」に仕立てあげるということである。宇垣総督の施政の核心は「農工併進政策」である。「農」の問題では、詳説のゆとりはないが「農村振興運動」が鳴り物入りで推進される。また「工」の問題では、一般的な工業振興と、電力開発、地下資源の開発などであった。

 当時宇垣のこの政策は、朝鮮統治上、最善のものとの評価を受けたものだが、果たしてそうであろうか。この問題は、満州問題との関連で見ればよりはっきりする。満州事変の起きた翌日、宇垣は「保護、独立国建設等の大芝居が打てぬなら、いわゆる画竜点睛を欠くものである」と書いている。事変は起きたばかりで、偽満州国建設は問題にもなっていない時期にである。

 宇垣は長年、陸軍中枢部に身を置き、日露戦争後の大陸侵略計画の樹立と推進に関わった人物である。

 ゆえに満州事変の一報を得るや、直ちに次の展開が読めた。

 偽満州国の建設、華北の分離。全中国の占領等々である。この展開で朝鮮はどうあるべきか、「農工併進政策」を強力に推し進め、大陸侵攻をすべての点で補完する「兵站基地化」を完成させることである。私は、宇垣に朝鮮貧民に対する同情心が全くなかったと言うつもりはない。しかし、その「農工併進政策」が、いわゆる善政でないことだけは確かである。1932(昭和7)年1月8日、義士李奉昌が桜田門外で天皇の車に爆弾を投げた「一視同仁にあらせらるる……、至尊(天皇)に対して、斯様の不心得の行動が朝鮮によりて演ぜられたるは、誠に恐懼至極也」(『宇垣一成日記2』)。

 政治的軍人宇垣に、朝鮮人の心が理解できるはずもない。(琴秉洞、朝・日近代史研究者)

[朝鮮新報 2005.9.14]