〈生涯現役〉 在日高齢者無年金京都訴訟団の原告団長−玄順任さん |
京都市の織物で名高い西陣の北西の一角、通称「百軒長屋」。人がすれ違うのがやっとの狭い路地を歩くと、機を織るリズミカルな音が聞こえてくる。ここに在日高齢者無年金京都訴訟団の原告団長・玄順任さん(78)の家がある。
今年3月、京都地裁での意見陳述冒頭で玄さんは、力を込めてこう語った。 「朝鮮人が何を悪いことをしたのか、根本を裁判長に教えてほしい。国を盗られて100年。『悪い』とレッテル張られて100年。すでに在日の6代目が生まれている。しかし、朝鮮人はいまだに差別され続けている。どんなに悪いことをしたとしても、こんなに、長い罰ってあるのか。なぜ、被害者の朝鮮人が『悪い奴』で、加害者の日本は『清く正しい神の国』なのか。私は無学なのでその理由がわからない。最高学府で学んだ裁判長、ぜひ、教えてほしい」 真っ正直に生きてきた人の、切々とした肉声。「戦争中は『内鮮一体』とか言う都合のいい言葉を編み出して、戦争に狩り出しておいて、敗戦後は『国籍』の壁を設けて、社会保障のいっさいから朝鮮人を締め出した。この日本の不道徳ぶりは、許されへん」。まるで一生分の胸のつかえを吐き出すかのようなよどみない主張に、傍聴していた支援者たちも大きくうなずく。 壮絶ないじめ
玄さんは、日本の植民地統治の真っ只中の1926年、忠清南道公州で生まれた。祖父の代までは6000坪の土地を持つ地主だったが、日本によってその8割を没収され、家運は傾くだけ傾いていた。「残された土地だけでは暮らしていけず、税金も払えなくなって、父は警察に捕まった。税金が払えないというと、保証人を立てて、借金して税金を払えと言われ、日本に出稼ぎに行くことになった」。 玄さんが1歳8カ月の時、京都で石炭運びの仕事に就いていた父に呼び寄せられて、母と姉の3人で京都へ。しかし、3年後、弟を生んだ母の産後の肥立ちが悪く、帰郷。懐かしい祖父と再会した。利発だった玄さんを孫の中でもとくにかわいがっていた祖父はいつも膝に座らせて歴史の話を噛んで含めるように聞かせてくれた。 「朝鮮はほかの国を攻めたことも侵略したこともない。貧しくても仲良くみんなで暮らしていた。日本がやって来て、『合併』とか言って朝鮮をまんまと騙して、すべてを奪った。食べるためにあぜ道に野菜を植えていたら、日本の警察が来て、それまで引き抜いて、踏んづけて食べられないようにしてしまった。人がやることじゃない」。この時の祖父の悔しそうな顔が今でも頭から離れないという。祖父との平穏な語らいはわずか7カ月で終わり、再び海を渡り、京都へ。ここから艱難辛苦の旅が始まった。 当時、父は馬車で精錬会社と紡績会社に石炭を運ぶ仕事をしていた。京都市左京区御影橋にあった社宅に入った玄さん一家を待ち受けていたのは壮絶ないじめと暴行であった。 「お使いで外に出たら、『チョーセン、ナップン、帰れ』の大合唱。言葉だけならまだしも、髪の毛をつかんで引き倒されて、踏んづけられ、本当に怖い目にあった」。それだけではない。父が身元保証人になっていた朝鮮の子が奉公先で泥棒の濡れ衣を着せられたため、その潔白を主張した父が今度は下鴨署に連行され、拷問を受け、瀕死の重傷を負い、その後数年間も病床に伏してしまった。さらに追い討ちをかけるように38年、働き詰めだった母が5人の子供を置いて不帰の人に。生まれたばかりの妹も母の死後1カ月後に亡くなった。 独学ですべて覚えて 11歳だった玄さんは、学校にも行けず、幼い弟妹のためにこの日からずうっと働き通してきた。 帯紐を織る内職で稼いだ金でワンピースを買って、妹に着せてやったこと。弟の教科書で漢字もかなも独学で覚え、父から算盤を学び、弟から九九を学んだ。弟の宿題はすべて代わりにやってあげたことも今では懐かしい思い出である。 機を織り60年
解放の年に結婚。20歳の時、長男が生まれた。夫にも機織りを教え、2人で地道に働き、西陣に住まいも購入した。81年、夫が62歳で早世するまで、早朝から夜遅くまで、ずうっと働きつづけた玄さん。その間、女性同盟の分会長も何期も引き受け、地域の同胞の暮らしを支えてきた。 今、障害者の息子と2人暮らし。一日10時間ほど働いても収入はごくわずか。 「なぜ、人間として当たり前の暮らしができないのか。朝鮮人だからといって、いつまでも年金ももらえへんのや。自分のためじゃない、子孫たちのために最後まで闘いつづけたい」 人が生きることの気高さを、玄さんの背中は見せてくれている。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.9.25] |