古都・開城をいく 栄華誇った高麗王朝の足跡 |
開城市は高麗王朝500年の首都である。朝鮮戦争(1950年6.25〜1953年7.27)の前には南に属し、停戦の後北に偏入された。この街は板門店に緊張が走るたび、真っ先にその影響を蒙る軍事境界線の街であったが今では南の開城工業団地が稼動し、風光明媚な自然と歴史、文化を求めて南のツアーが押し寄せ統一に向けた交流最前線の街に変ぼうしようとしている。 開城市を訪れたのは9月1日から3日。2日、韓国からの開城日帰りツアーのバス14台と出会った。ソウルからバスに乗り、非武装地帯を通り抜け開城市に入った彼らの心情はいかほどのものであったろうか。今回のモデル観光がうまくいけば、ひと月に3000人の観光団が予定されていると聞いた。
私たちも案内され市内観光をした。栄華を誇った高麗王朝の王宮址「満月台」に立つと母なる山・松岳山が眼前に悠然とそびえている。外敵の侵略と反乱、紅頭敵の侵入により王宮は焼かれ、もはや往時をしのぶ物はなく夏草が生えこおろぎが飛び交い王宮址には階段と柱の跡だけが残っている。1000年の移ろいを経た「満月台」址に立つと昔日の思いが行き交うようだ。 開城の人に愛され語り継がれてきた松都三節(朴淵瀑布、黄眞伊、徐敬徳)の第一に挙げられる天下の名勝・朴淵瀑布は、巨大な岩の真ん中を高さ37メートル、幅1.5メートルで水が流れ落ち、周辺の緑の城壁や岩が突き出た美しい景観と調和をなしすばらしい魅力を醸し出している。滝の上に昇り情緒豊かなあずま屋・泛槎亭をあとにして姜邯賛将軍が築いたという大興山城北門までは「開城金剛」と呼ばれている。さらに30分、渓谷に沿って1キロメートルほど緑陰の中を歩くと970年に創建された「観音寺」(壬辰倭乱で消失、1646年に再建)がある。 高麗時代の建築様式が色濃く残り、大雄殿には本尊の阿弥陀佛坐像と両脇に観音菩薩、大勢地菩薩の立像が安置されている。大雄殿の彫刻花文様は華麗なことで有名であるが本堂裏にある引き戸には悲しい伝説が伝えられている。
彫刻が上手だったウンナという11歳の少年が木工として連れてこられ花文様を彫っていた。ある日、少年は家からの知らせで母が危篤だということを知ったが帰してもらえずとうとう母の最期に立ち会うことさえできなかった。彫刻の才能が何なのかと少年は泣きながら自分の左手を切り落としどこかに行ってしまった。そのため花文様の引き戸は今も片方が未完成のままになっているのだという。大雄殿隣の崖の下には高さ60センチくらいの洞窟の入口がある。穴をくぐると真っ白な大理石の観音像が一体立っている。照明も何もないが外から漏れ入った明かりでほんのり清楚で美しい表情をみせている。170センチくらいはあるだろうか見る人を感動させずにおかない繊細で精巧な観音像である。 本来は一対で2像あったが1体は朝鮮中央歴史博物館に保管されているそうだ。高麗時代の人ならではの佛教的信仰と青磁を焼いたと同じ芸術的極致に達した像である。 開城は到る所観光名所である。「丹心歌」で有名な鄭夢周は「二君にまみえず」として自宅近くの「善竹橋」で刺客に暗殺された。同じように朝鮮王朝に任官を拒否した72人の忠臣たちは杜門洞に移り住んだ。鄭夢周の自宅は1573年に修復され儒教の教育機関「ッ陽書院」になった。 世界でも有数の古い大学である「成均館」は当時儒教の最高教育機関であり数多くの逸材を世に送り出した。姜邯賛、文益漸、朴趾源も「成均館」の卒業生たちである。現在は「高麗博物館」として開放されていて入口を入ると1000年以上経った銀杏とけやきの木が両脇にそびえ、昔、儒生たちが学んだ明倫堂、東斎、西斎が建ち並んでいる。 市の中心部には昔の街並みが残り今も人が住んでいる。子男山の麓には昔の両班、官吏たちの住居を利用した「開城民俗旅館」がある。朝鮮固有の入母屋造りの建物で門を押すと「ギイー」と音が響き中庭を通りオンドルの部屋にいたる。21棟ある民俗村は小川が流れ情緒たっぷりである。郊外には「王建陵」「恭民王陵」、李朝2代王「定宗」と「安定王后」の「後陵」などがある。朴趾源や黄眞伊、ムルレの墓など歴史をたどることもできる。 郊外に広がる高麗人参の畑が「ここが開城だ」と教えてくれる。開城市はこれから世界中の人々をますます魅了していくことだろう。(洪南基、東京科協会長) [朝鮮新報 2005.9.28] |