〈私と朝鮮新報−創刊から60年(上)〉 金炳元・元主筆、編集局長 |
同胞の声を代弁した道程 本紙・朝鮮新報(当初は民衆新聞)は10月10日、創刊60周年を迎える。日本の過酷な植民地支配の解放から2カ月足らずで、在日同胞の声を代弁し、その権益を守るメディアが誕生したことは、内外の人々の圧倒的な支持と共感を受けた。本紙では、関係者にこの60年を振り返り「私と朝鮮新報」のテーマで語ってもらった。1回目は金炳元本紙元主筆・編集局長。 金炳元さんは1918年生まれの86歳。植民地支配下の咸鏡北道吉州に生まれ、戦前、戦後を通じて一貫して、言論出版分野を歩き、60年から70年まで朝鮮新報編集局長、初代主筆を務めた。
「朝鮮新報の創刊によって在日同胞は、金日成将軍の祖国凱旋、民主朝鮮の建設を知り、どれほど勇気づけられたことか。祖国統一のための南の人々の闘い、南北連席会議(1948)の支持といった歴史的出来事を伝える朝鮮新報をむさぼり読み、政治的思想的に大きく目覚めた」 民衆新聞のタイトルで創刊した当初、資金はもちろん、陣容、印刷設備、配達網など、必要な体制は整ってはなかった。 「まず、タブロイド版2ページの謄写版で、月6回を目標に第1号を出した。数日後には在日本朝鮮人聯盟(朝聯)が結成(10月15日)され、同紙はその組織拡大の強化に大きく寄与した。発行所は現在の東京都新宿区高田馬場。後に港区新橋に移った」 民衆新聞は14号から活 版印刷に、46年の8.15 解放1周年を契機に大阪 の大衆新聞と統合、ウリ 新聞と改題。名実共に在 日同胞の唯一の言論機関 として出発した。さらに 9月1日から解放新聞の タイトルで紙面もタブロ イド版から全紙2ページ、3 日おきから隔日刊へと移 行。本社も中央区日本橋 本町に移った。 「配達網が整備され、在日同胞から印刷工場の基金に多額の資金が寄せられるなど厚い支援は大変なものだった」 しかし、在日同胞にとって、言論の自由と唯一の民族紙を守る道のりは、険しかった。 「48年当時、朝鮮民主主義人民共和国の国旗を掲げることすら許されず、弾圧を受け、東京、仙台、宇部など各地で逮捕された同胞も数知れなかった。 わが新報も例外ではなかった。8.15直後、新聞用紙は配給制。GHQ(米占領軍)の検閲はすべての出版物が甘受せざるをえなかったが、用紙を闇市に依存する度合いが高くなり、社の経営陣は資金調達に四苦八苦となった」 49年9月。朝鮮戦争を 画策する米日当局は朝聯 と在日本朝鮮民主青年同 盟(民青)に対し解散を 命じ、幹部たちを公職か ら追放、財産を没収した。 翌10月には「学校閉鎖 令」なる一片の紙切れで 1世たちの汗と血の結晶 である朝鮮学校を閉鎖する暴挙に出た。 「解放新聞は、これら在日同胞に加えられたファッショ的弾圧の不当性を追及、糾弾し、同胞とともに屈することなく最後まで民族紙としての立場を誇らしく貫き通した」 解放新聞の朝鮮戦争(50年6月〜53年7月)報道、米国の朝鮮侵略に反対する力強いキャンペーンには目を見張るものがあったという。 「金日成主席の6月26日の放送演説『すべての力を戦争勝利のために』は、すばやく同胞の間に知らされた。そのめざましい戦果と祖国の人々の英雄的な戦いを新聞を通じ読んだ在日同胞は、祖国を守るため心を奮い立たせた」 だが、GHQと日本当 局は、同胞メディアの徹 底弾圧に着手した。50年 8月2日、まず解放新聞 を強制的に発行停止し財 産を没収。9月30日には 朝鮮通信を発行停止する 不当な措置をとったのだ。 「振り返れば、先輩たちは血のにじむような努力のすえに新聞を発行し、守り通した。52年、解放新聞を復刊させ、在日朝鮮人運動の路線転換方針を支持、総聯結成(55年5月25日)に大きく貢献した。復刊に際して祖国から朝鮮語の活字(母型)が送られてきたが、その出来事がいかにみなを力づけたか、感激は今も忘れられない。59年には飯田橋にあった木造バラック造りの社屋から現在の社屋に移り、翌年には高速輪転機を導入。61年1月1日には題字を朝鮮新報に改め、同年9月9日、日刊化を実現させた」 金さんは、弾圧の嵐をくぐりぬけながら、同僚たちと共に、新聞を発行し続けた日々が懐かしいと目を輝かす。 「私たちの最後の願いは祖国の統一である。朝鮮半島を和解と統一に導く金正日総書記と金大中前大統領の構想力と決断によって実現した6.15共同宣言の精神に沿って、こんにち北と南が全面的な交流の時代に入ったことは何よりもうれしい。今年の8.15行事をソウルで取材した本紙記者が民族の和解と統一を望む民衆の生々しい声を伝えていたが、感無量であった。今後も同胞らに祖国の姿、統一への力強い確信を伝える新聞として発展していってほしい」(朴日粉記者、次回からは投稿形式で本欄下段に掲載) [朝鮮新報 2005.9.29] |