〈人物で見る日本の朝鮮観〉 南次郎(上) |
南次郎(1874〜1953)は軍人にして政治家である。陸軍士官学校卒業後、騎兵少尉に任官以後、騎兵の実戦部隊の一員として日露戦争に出陣、大尉の身をもって功四級の金鵄勲章を授与された。その南が1930年、陸軍大将となり、翌年、陸軍大臣になる。そして、宇垣一成の後任として、朝鮮総督に親任される。時期は1936年8月から1942年5月末までの6年間である。この稿では、南の6年間にわたる総督時代の朝鮮統治政策の要所、要所で吐かれた言わば政策的提言を中心に、その朝鮮認識を追ってみたい。 南次郎は大分県西国東郡高田町で父喜平、母房子の次男として生まれた。家は代々日出藩木下家(二万五千石)の家臣で、家格は家老に次ぐ御用人である。父喜平は旧藩時代奉行職なども勤めたが、廃藩後は大分県に出仕。また、後の豊後高田市の区域の区長(今の市長)に任じられた。次郎は11歳の時、叔父で陸軍少尉の宮崎義一に引き取られ東京に上京する。学校は、芝鞆絵小学校に編入、中学は東京第一中学に入り、成城中学に転校。そして1890(明治23)年、陸軍中央幼年学校に入学、2年後陸軍士官学校に入り、3年後陸士卒業、騎兵少尉に任官する。このあとの軍歴は大幅に省略したい。しかし、日露戦争の軍功で大本営参謀に栄転したことは、同期の秀才たちを抜いてのことで大いに注目された。1930(昭和5)年に陸軍大将。翌年、第2次若槻内閣に宇垣の後任として、宇垣の推薦で陸軍大臣となる。この南の陸相時代に満州事変が起きる。この時の対応責任を問われて敗戦後、東京国際法廷でA級戦犯となる。 1936(昭和11)年8月、今度も宇垣の後を承けて朝鮮総督となり、満6年間、朝鮮に君臨するのである。前述したように南の総督任期は6年間であるが、これはどのような時期であろうか。日本の朝鮮植民地統治は武断統治期、文化政治期、ファッショ統治期の3期に分けられるが、南はファッショ統治期の総督である。つまり、南総督期は植民地初期に樹てられた統治目標が次々に完成させられていった時期である。 日本の朝鮮統治の最大目標は、朝鮮人民の完全な日本人化である。「内鮮一体化」政策、「一視同仁」政策、すべてこれ、朝鮮人の日本人化政策であるが、政治的、経済的、文化的差異等の理由でこれがうまくいかない。これを南統治期、政策的にほとんどやり遂げたのである。 まず、南朝鮮総督の抱負をみてみよう。「そもそも朝鮮統治の宏謨は併合の聖詔に遵由し、大綱、夙に定まりて動かず、始政以来、歴代の統治者、皇献を奉体して只管籌策を施すこと二十有五年、今や政果大に挙りて、旧来の面目、ほとんど一変せり」と歴代総督の治績をほめあげ、現時点での課題をあげる。「東洋平和の根基たる日満一体の宏図を遂げ、両国同栄の実を培ふは、これ、必須喫緊の時務にして、朝鮮の負荷する使命のますます大なるものあるを惟う、即ち、人的、物的の両要素にわたり、内鮮一如、鮮満相依の境地を洞察して、資源を開発し、民心を啓沃し、あまねく、真に雄強国民として、間然するなき生活の基礎に達せしむるは、けだし、統治終局の理想を顕現するの所以」だと言うのである(「就任に際しての総督諭告」1936年8月27日)。 南の総督就任に際しての意欲の並々ならぬものが感得できるであろう。そして、その課題を南時代に仕上げてゆくのである。 南の任期中の施政の一端を列挙すれば次の通りである。 1937年10月「皇国臣民の誓詞」3条なるものを作って朝鮮人民に強制的に斉唱させる。1938年2月「陸軍特別志願兵令」を施行。朝鮮青年を志願という形で戦場に駆り出したのである。同年5月、「国家総動員法」を朝鮮に施行する。朝鮮の物的資源、人的資源はあげて、大陸侵略戦争に動員する法的根拠がこれでできた。1939年10月、「国民徴用令」を施行した。それまでも強制連行、強制労働政策は行なわれていたが、これで有無を言わせず朝鮮人を引っ張れることになる。1940年2月、「創氏改名」実施。朝鮮人は日本式姓名に強制改名させられる。1941年6月、「国民学校令」施行。低学年の学校教育から民族語は禁止となり、日本語を「国語」とした。「創氏改名」と共に民族性抹殺政策の根幹である。1942年1月、「一千万石増米計画」実施要項作成。朝鮮は米を増産し、日本に供給するという図式である。そして、1942年5月、ついに「徴兵令」が、閣議決定をみる。今度は全朝鮮青年を否応なしに弾よけにすることになる。 次稿では、南総督が各項目別に発した政策的提言を具体的にみてみたい。(琴秉洞、朝・日近代史究者) [朝鮮新報 2005.10.12] |