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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−3〉 国内外で認められた才媛 尹貞媛

 尹貞媛は女性として初めての日本をはじめヨーロッパの5カ国を12年間留学、勉学に励み、教育と独立運動に貢献した女性である。

 彼女は1883年ソウルで生まれた。父尹孝定は1894年の甲午改革後、政府の財政官庁主任、1898年には独立協会の会計を勤めた開化派の人物であった。彼女が16歳のこの年、日本に亡命(帝位、譲位陰謀事件と関連)した父親と日本に渡り、公使、秋月の斡施で当時有名な教育者であった原富子の門下生となった。

留学経験

 8年間の日本留学を通して彼女の聡慧明敏な学問能力は教育界で認められる。東京音楽学校を卒業後、1905年には秋月公使がベルギーへ行くのを契機にヨーロッパ留学への道が開かれる。そして、ベルギー、英、仏、独、米で音楽と語学を修めた。とりわけ彼女の流暢な外国語は外国人も驚嘆するほど、音楽の方もきわめて優秀だったという。

 ヨーロッパ留学中、彼女は東京で創刊された留学生の雑誌「太極学報」に「本国の諸兄諸妹に」(第2号、1906年9月)、「秋風一陣」(第3号、同年10月)、「謙恭の精神」(第4号、同年11月)「献身的精神」(第7号、1907年2月)の4編を著わしている。これは公式メディアに載った女性初の寄稿文となる。

 当時、文化啓蒙運動を繰り広げていた男性たちは早婚のへい害から、近代教育を受けた女性との結婚など風俗改良、そして母親になる女性を教育すれば、子どもを良く育て、国権回復にも役立つという認識で、女性教育の重要性を主唱した。

 これに比べると彼女は、風俗改良より女性も近代社会の構成員であり、それに相応しい任務を遂行するための女性教育が必要であると強調している。しかし、女性の基本権利の確保のような問題認識はまだ見られない。

有能な女性教師

 1908年、大韓帝国政府は、官立漢城高等女学校を設立。1909年のはじめヨーロッパで留学中の彼女に次のような電報が届く。

 「三月四日任官立漢城高等女学校教授 敍奏任官四等尹貞媛」

 こうして彼女は教師として任用され、有能な女性教師として漢城高等女学校の土台を築くのに大きく貢献することになる。

 1909年4月28日、官民合同の初代女子外国留学生還国歓迎会に朝鮮最初の洋医朴エスタ、初の文学学士学位を取得した河蘭史と共に招待される。ここには7800人が参席、歓迎会は女性の開化の促進に火を放つことになる。

 同年夏、彼女は1年前帰国した東京留学生、崔錫夏と結婚した。将来が嘱望される青年として尹考定が息子のようにかわいがっていた人である。

 彼女が漢城高等女学校で教鞭を執り始めて1年半を迎える1910年8月22日、「韓日合邦条約」が結ばれ、学校の主導権は総督府に渡った。「大韓帝国」は「朝鮮」、「漢城」は「京城」となり、1911年11月1日には「朝鮮教育令」が実施、学校名も「京城女子高等普通学校」と改められた。日本による武断統治は、役所はもちろん学校の校長、訓導まで刀を提げた日本人に様変わりした。

 彼女は、こうした殺伐とした植民地下で教育に対する意欲と志を失ってしまう。そして国を離れることを決心する。夫崔錫夏は安昌浩の率いる秘密結社、新民会から独立運動への連絡という使命を担って一足先に李始栄と共に西間島に発つ。1911年、彼女も乳飲み子の息子、亮を抱いて1人で北京へと向かった。しかし夫は病死していて再会を果たせなかった。

 その後、彼女は中国の各地で音楽や語学の個人教師をしながら子どもを育てる。そして1919年、3.1独立運動後、上海臨時政府が樹立されると、彼ら要人を助け独立運動に貢献する。満州や中国本土で独立運動をした人の中で彼女の世話にならなかった人はいなかったというくらいである。

 1945年6月、継母と弟に送った北京からの便りを最後に消息は途絶えてしまった。祖国を愛し、死ぬまで忘れなかった女性である。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

 尹貞媛(1883〜?)。1898年から日本(8年間)、1905年からヨーロッパ5カ国(4年間)で12年間留学。1909年政府から招聘され官立漢城高等女学校の教師として活躍。結婚後1911年中国へ亡命。音楽や語学の個人教師をしながら独立運動に貢献。

[朝鮮新報 2005.10.17]