〈人物で見る日本の朝鮮観〉 南次郎(下) |
南次郎は総督として朝鮮に赴任するや、統治に対する抱負を述べたが、その後も何回となく朝鮮統治の核心を明らかにする。1937年の元旦、彼は「年頭の辞」で「帝国本来の使命の達成は日満一体の理想実現の為め、我が朝鮮の地理的、経済的特殊地位にかんがみ、常に鮮満一如の精神を以て其の指標と為すべきこと」と述べ、翌年4月には、「朝鮮半島二千三百万民衆は、我が天皇陛下の赤子にして一視同仁の恵沢に浴しつつあります。私の施政上の根本方針は、此の聖旨を奉体して半島民を忠良なる皇国臣民たらしめ、内戦一体を具現化することにあります」と述べた。(『諭告、訓示、演述総攬』、以下、『諭告』と略す) 以上の引用ではっきりしているのは、朝鮮統治の目標は、天皇の赤子たる朝鮮人を忠良な皇国臣民化することであり、また偽満州国との日満一体の実現のため、朝鮮の地理的、経済的位置よりして、鮮満一如を達成するにある、ということである。 朝鮮人を皇国臣民化するための一環として、有名な「皇国臣民の誓詞」がある。児童用と中等以上の学生や一般用の2種類が作られた。南総督時代の37年10月のことである。児童用(15歳以下、ことに小学生)は、「一、私共は大日本帝国の臣民であります。二、私共は心を合せて天皇陛下に忠義を尽します(以下略)」。この「誓詞」2種類全文を南は38年5月、日満実業協会で披露し、「内鮮一体、日満不可分は、一に皇道の宣布に基づくものにして、此の高邁なる理想なくしてどうして支那四億の民衆と共に『東洋は東洋人の東洋である』という理想に進むことが出来るか」という。中国本土の民も「一体化」運動の視野のうちにあった。 32年7月、日中戦争が始まるや、日本は同年12月閣議決定で、朝鮮に志願兵制を布くことを決め、38年2月に勅令(天皇の命令)で朝鮮陸軍志願兵令を公布した。これには南総督の並々ならぬ力があずかっている。南は、同年3月の各道内務部長会議で、「事変勃発以来、示現せられたる半島同胞の愛国の至誠は、其の流露する所、竟に、人、天を動かして志願兵制度創設の機運を迎ふるに至ったのでありまして、要望運動に依り促されたるに非ず、全く一視同仁の広大無辺なる聖沢を垂れさせ給へるの結果(『諭告』)」とうそぶいた。38年春、国家総動員法が議会を通過し、5月、この「法」が朝鮮に「勅令」として施行発布をみた。そして、翌年7月には国民徴用令が公布される。この「法」らにより、朝鮮の人的資源、物的資源は「合法」の名において酷使、略奪を強められてゆく。 40年4月、道知事会議において南は、侵略戦争の目的遂行のための朝鮮の「兵站基地の使命」と関連して、次のように要約してみせた。「半島が大陸前進兵站基地たるの大使命を有することは」よく知られている。「此の使命を今後に完遂するの途は、人的資源の培養育成と広義国防産業の発達とにあります故を以て、本年度、本府予算は、人的方面に於ては国民精神運動機構の強化、半島民衆の教育及び訓練に対し多大の予算を割いて皇国臣民たる資質の練成をなすと共に、物的方面に於ては、生産力の積極的増強を主眼として編成」(『諭告』)するという。 悪名高い「創氏改名」は1940年2月に実施されるが、南は前年11月、これについて総督談を発表している。「歴史的考証に依れば、〜大和民族と朝鮮民族とは同祖同根」といい、「創氏改名」は「半島人の真摯かつ熱烈な要望に対へて」やったのだという(『諭告』)。現内閣のある大臣も同趣旨のことを述べて天下の笑いを買ったが、当時朝鮮では改名押付に反対して自殺者まで出ている。 当時の朝鮮の戦略的位置づけは偽満州国成立以来、宇垣前総督のいう大陸侵略の兵站基地化である。アジア侵略による日本人壮丁の動員は兵力の不足をきたし、必然的に国内労働力の不足をもたらした。日本は、地勢条件や物質的収奪源としてだけでなく、天皇のために喜んで命を投げ出す兵士と、戦時労働力の供給源として、あらためて朝鮮に着目した。そこで皇民化を進める内鮮一体政策を強化する。39年5月、道知事会議で南は「内鮮一体の窮極の目的は、半島同胞をして忠良なる皇国臣民たらしむるにありまして、内鮮人間に於ける一切の区別を撤廃するを以て本旨とし且つ終局の目的とする」と云った。南の本音は、思想水準を日本人並みに引き上げて皇国臣民化することを前提に、兵力の不足を志願兵制、徴兵制を布いて朝鮮人に義務づけて補い、また、本土の労働力不足を朝鮮人の大量動員によって解決しよう、というもので、そのための内鮮区別撤廃である。要するに、南治下の諸施策は併合以来の目標の総仕上げであった。 敗戦後、南はA級戦犯で裁かれ終身刑となったが、罪は満州侵略であって、朝鮮統治の悪政ではなかった。(琴秉洞、朝・日近代史研究者) [朝鮮新報 2005.10.19] |