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柳煕貞先生の物語(上) 「現代朝鮮文学選集」の産みの親

 人生の晩年をどう生きるかは青年期、壮年期に劣らず重要な意味を持つ。これは祖国訪問の際、77歳になる女性作家、柳煕貞先生に出会い、私が得た貴重な生活理念である。

 文学が好きな私は、いま相次いで朝鮮で出版されている「現代朝鮮文学選集」の編さん者、柳煕貞という人に関心を持っていた。それと言うのもこのシリーズ、今までのとはずいぶん違い、新しい作品がたくさん補充されているばかりかとても読みやすいのである。

 そうした折に、あることがきっかけで私は運良く先生に会うことができた。先生の歩んできた人生行路とこれまでやってこられた仕事について聞き、私は胸を強く打たれた。そしてこのペンを執ることにした。

父の望み

柳煕貞先生

 先生は、1928年京畿道開城で生まれた。

 小学校しか出ていない先生の父は、子どもたちだけでも高等教育を受けさせたいという思いで居住地をソウル近郊の汶山に移した。そして小さな薬局を開き、5女2男を育てながら、長女である先生をソウル淑明女子高等学校に通わせた。最年長の長女を教育させておけば、下の子らは自然と上の子に習って育つであろうと考えたのである。

 祖国が解放された年、女子高等学校を卒業した先生は、新しい国の担い手としての志を胸に抱き、淑明女子大学に進学した。しかし、学園の民主化を志向するストライキに関連、47年に退学処分を受ける。

 学び舎を失ってしまった先生は、進歩的な少人劇団で劇作を修業、その後民主青年同盟に直属する劇団「青服劇会」に入団、「文化工作隊」として活動した。そうして47年、地下組織の一員であった柳英卓と結婚、すぐに労働党に入党し地下活動に参加するようになった。

戦争の傷跡

 49年、2人は「金日成総合大学にいっしょに行こう」と決心。2人の子ども(次女はまだお腹の中にいた)を持つ先生はあとから行くことにして、夫の柳英卓が先に越北。しかし、運命のいたずらか、その翌年に朝鮮戦争が起きてしまった。

 ソウルが一時解放された6月28日を機に、先生は、宣伝省で文化人を1つにまとめる仕事をする一方、一幕物の芝居「待ちわびた人」を創作、公演した。7月には朝・ソ文化協会ソウル市委員会宣伝部の講師に任命される。だが、米軍が9月に仁川上陸、幼い2人の子を姑にあずけ、組織について江界まで後退した。

 51年、平壌に戻った先生は、朝・ソ出版社雑誌課の記者として工作活動を展開した。

 戦争が終わった53年には、平壌市5女子中学校の文学教師として教べんを執った。

 厳しかった戦争は、先生の私生活にも深い傷跡を残すようになる。わけあって夫と別れなければならなくなったのである。その後、先生は北へ後退する際に残してきた2人の娘の行方を探した。4歳になる上の娘は探すことができたが、1歳になる下の娘はとうとう探すことができなかった。

詩人との再婚

読みやすく編さんされた「現代朝鮮文学選集」

 54年、先生は5女子中学校の校長の勧めで朝・ソ出版社で雑誌課長を務めていた金尚勲と再婚した。

 彼は、解放直後にだした詩集「戦衛詩人集」「隊列」「家族」などで知られた詩人であった。

 「本当のことを言うと、私が彼を好きになったのよ。人情深く、何でも良く知っている彼に魅せられた…」

 話題が夫のことになると、いつしか先生の目には涙が浮かんだ。

 金尚勲は、1919年慶尚南道居昌郡で生まれた。父は3.1独立運動の時、家を出たきりで、4歳の時、本家にあたる伯父の家に養子として迎えられ、幼くして漢文を習った。その才能は神童と呼ばれたくらいだったと言う。

 ソウルの延禧専門学校文科4年生の時、学徒兵を回避したことで元山鉄道工場に徴用された。そこで反日団体に加わり活動中逮捕され、西大門刑務所で獄中生活を強いられる。

 祖国の解放とともに出獄した金尚勲は、学兵同盟で活動する一方、詩の創作、中国古典詩の翻訳をしながら、文学家同盟の一員、党員としても活躍、幾度も留置場での生活を経験した。

 12歳の時に結婚した妻は精神病にかかりついに離婚。そのうえ左翼運動をするということで養家からは籍を抜かれた。その後ソウルに移り、実母と子ども(1女2男)との生活に入った。

 そうした折、ソウルが一時解放され、義勇軍に入隊、一時後退の時期に智異山人民遊撃隊の文化課長として活躍するが、53年、負傷して除隊。朝・ソ出版社で柳煕貞先生と出会うことになる。

 その後、戦闘手記「人民復讐者たち」1、2、そして数多くの詩と、長編「漢拏山」をはじめとする小説、随筆など創作する一方、漢詩集、歌謡集など古典文学選集も翻訳出版した。しかし86年、68歳で不治の病によって死去した。

 金尚勲の死を知った金正日総書記は、本当に惜しい人を亡くしたと述べ、彼の葬儀を機関葬(社会葬)で執り行うこと、さらに埋葬場所まで指定したという。97年には、その功績をたたえ「祖国統一賞」が送られた。

 南の出身である作家とその家族に対するこのような深い配慮に、柳煕貞先生の心は感謝の気持ちでいっぱいになったと言う。

 先生は以降、夫の遺稿作品「李奎報作品選」と中国古典詩選、詩集「土」などを本にまとめて出版したあと、85年に解放以前の文学遺産を探し出し、保存するようにとの金日成主席の教えを実践する、現代文学選集編さん事業に参加することになる。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

[朝鮮新報 2005.10.30]