古代朝鮮文化訪ねる旅 15周年企画 上野・下野路(群馬、栃木)、随所に古代朝鮮の足跡 |
今年で15年目を迎えた「日本の中の古代朝鮮文化を訪ねる旅」(主催=同実行委員会、後援=日朝学術教育交流協会・日朝友好資料センター)。記念すべき15周年特別企画として、日本の中でも古代朝鮮文化伝来の足跡が最も色濃く残る上野・下野路(群馬、栃木県)を旅した。 上野(群馬)
群馬県は全国でも有数の「古墳県」で、その数は1万基を上回るといわれる。栃木県にも100メートルを超える大型古墳や群集墳が少なくない。これらの古墳文化は6〜7世紀頃、古代朝鮮から渡来した新羅、百済、高句麗、伽耶などの移住民勢力がもたらしたもので、朝鮮系統の様式と色彩が濃く、武具、馬具、須恵器などの副葬品にも朝鮮渡来系のものが数多く見受けられる。 今回はそんな中から、群馬県では多胡碑と八幡塚古墳、栃木県では小野寺山大慈寺と下野薬師寺跡を訪ねた(別項のメモ参照)。 往路のバスの中では、講師の歴史学者・文芸評論家、朴春日氏から訪問先について丹念に説明を聞いただけでなく、円仁に関するビデオも鑑賞したため、参加者らの事前知識はばっちり。 現地では学芸員やボランティアのスタッフらが丁寧に説明してくれ、その説明を聞きながら、参加者らは事前の知識を確認していた。
最初に訪れた「多胡碑」のある「多胡碑記念館」では、館内にあるレプリカを前に学芸員の大工原美智子さんから説明を受けた。実物はガラスケースに収められていて、碑が建てられた3月9日だけ開放される。 「群馬県にはカン、カラといった地名が多い。朝鮮半島との関わりがあった地域」「多胡の胡は『外国の人』のこと。『外国の人がたくさん住んだ』と解釈する人もいる」などと、古代朝鮮からの渡来人の影響について語る大工原さんの解説に、参加者らはそのつどうなずいていた。 次に向かった八幡塚古墳は典型的な前方後円墳。一行はまず、かみつけの里博物館内にある「榛名山東南麓古墳社会推定復元模型」を前に、学芸員の大野美津子さんから説明を受けた。 この模型は同地域の5世紀の社会景観を復元したもの。大野さんは八幡塚古墳について、「朝鮮半島の進んだ技術をいち早く取り入れた」などと、その関わりについてごく自然に語ってくれた。 その後、一行は朴講師の説明を聞きながら、復元された八幡塚古墳を見学した。雄大にそびえる古墳に圧倒された様子の参加者たち。頂上に上ると全体が見渡せる。周囲には祭祀を行ったと思われる円い島が4つ置かれていた。頂上から内部へ降りると大きな石棺があるが、これが豪族の眠った巨大な棺である。これも忠実に復元されている。 下野(栃木) 昼食後、一行は小野寺山大慈寺へ。多少スケジュールを欲張ったせいか、寺に到着したのは午後3時を回っていた。そのため、ここからは駆け足で進むことに。住職から寺の由来などについて話を聞き、境内にある円仁の像をおがませてもらった。 境内にはライシャワー元駐日大使夫妻が1964年に訪れた際の記念碑がある。というのも、円仁が修行で中国を訪れた際に書いた日記を英訳し一躍有名にしたのがライシャワー氏であるからだ。 最後の目的地は下野薬師寺跡。到着した際、時計はすでに午後5時を回っていた。同歴史館で、早い時間から一行のためにスタンバイしていたボランティアの吉田春彦さんから説明を受けたあと、薬師寺跡を見て回った。といっても、いまだ発掘の途中とあって、あたりは暗闇。復元回廊などがおぼろげに見られるのだが、「もう少し日が高ければ」と残念がる声も聞かれた。 発掘に関わっているという吉田さんは「今春の発掘で(薬師寺が)一塔三金堂様式であることが判明されたが、まだまだ謎が多い。今後も発掘は続けるので、リピーターとしてぜひ来てほしい」と語っていた。 復路の車中では、参加者らが感想を述べあい、来年の再会を誓って散会した。(文聖姫記者) メモ ●多胡碑(群馬、吉井町) 711(和銅4)年に上野(こうづけ)国(現在の群馬県)の片岡郡、緑野(みどりの)郡、甘良(から)郡から300戸を分割して新たに多胡郡が設置されたことを記す石碑。当地の史料によれば、「多胡碑は、先進技術をもった新羅系の渡来人たちが移住し開発を進め、新たに多胡郡を設置した記念碑」(「群馬県の歴史散歩」)。宮城県の多賀城(たがじょう)碑、栃木県の那須国造(なすくにのみやつこ)碑と並んで日本3古碑の1つ。(写真は「多胡碑記念館」内にあるレプリカ) ●八幡塚古墳(群馬、井出) 6世紀頃に築造された前方後円墳(写真はお祭りの場)。周囲に同じ頃の大型前方後円墳が2つあり、保渡田(ほとだ)古墳と呼ばれる。朝鮮移住民の集住地がある榛名山の東南麓一帯に君臨した豪族の墳墓と考えられている。墳丘の全長96メートル。舟形の石棺からは金銅製の馬具と神像が発見されており、同古墳で最後に築造された薬師寺古墳からも同じく金銅製の馬具が出ている。 ●小野寺山大慈寺(栃木、岩舟町) 比叡山延暦寺の第3代座主である慈覚大師(じかくだいし)円仁が9歳から15歳まで修行した寺。円仁の俗姓は壬生(みぶ)氏で、新羅系移住民の開拓地であった甘良郡には壬生公郡守をはじめ同姓の有力者が多いことから、新羅系と見られる。円仁の書いた「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」は世界3大旅行記の1つとされる。(写真はライシャワー元米駐日大使が参拝した際の記念碑) ●下野薬師寺跡(栃木、南河内町) 東国仏教文化の拠点で、奈良の東大寺、九州の筑紫観世音寺と並んで「天下の3戒壇(修行場)」の1つ。これまで23回にわたって発掘調査が行われ、今でも続いている。今春の発掘で飛鳥寺の「一塔三金堂」様式と同じであることが判明したが、同じ様式としては平壌郊外の定陵寺が有名。定陵寺は高句麗の始祖王・東明王陵に隣接する寺院で、4世紀末〜5世紀初に建立されたと見られる。(写真は上空から撮った下野薬師寺跡、「五町文化財マップ」より) [朝鮮新報 2005.11.5] |