〈生涯現役〉 女性同盟京都南支部の名物ハルモニ−高五生さん |
京都の女性同盟主催のあらゆる集いに出席し、柔らかな笑顔と物腰で辺りの雰囲気をほのぼのとさせているのが、高五生さんである。 女性同盟京都南支部委員長を長く務め、18年前に顧問になった。南支部はJR京都駅の南東、京都市南区東九条にある。顧問になってからも一人暮らしのアパートから自転車で毎日、支部に顔を出し、活動家たちの昼食作りや掃除などに励んできた。 いつも明るい高さんの周りには、長寿会のハルモニたちが訪ねてきたり、チャンゴ仲間たちとの語らいの輪が広がっている。「20余年前には、朝鮮新報の現役分局長だった。当時日刊だった新報を230軒の同胞宅に配り、集金もした。それで新報社から還暦のお祝いをしてもらったこともある」と当時を懐かしく振り返った。 笑顔を絶やさず 笑顔の絶えない高さんだが、その裏には壮絶な人生との格闘があった。1921年、済州島で6人兄弟の長女として生まれた。日本の植民地支配によって土地を失って没落した農民たちが生きる糧を求めて、日本や満州へと流浪していた頃である。高さんの父も、北九州の炭鉱で働くことに。長女の高さんも父を頼って13歳で渡日。朝鮮人労働者への暴行は日常茶飯事で、高さんたち親子は、運良く逃げ出して、大阪へ。 商才が開花して
大阪では古着の商いをしていた叔父を頼った。済州島から家族もやってきた。 17歳で結婚。夫になった人は15歳年上で、連れ子がいた。「親子一生懸命働いた。大阪で夫はくず鉄の仕事を始めたが、京都・西陣に間借りして紙屋に転業した」。 日増しに戦争色が強まり、商売にも影響が出始めた。紙も集まらなくなり、くず鉄業に戻ることに。そこで、西陣から現在住んでいる東九条に移った。だがくず鉄は軍への供出のため集まらなくなり、夫は砥石屋に職を得た。当時この地域には、旋盤の工場や刀を焼く町工場がたくさんあった。 日本敗戦の年には、またくず鉄業に戻るというめまぐるしさだった。やがて8.15。念願だった息子も生まれた。
「夫は大喜びして、布団や鍋などの家財道具を故郷に送ってしまった。誰も彼も『解放』に酔いしれて、すぐにでも帰郷できると思っていた」 その喜びも束の間、祖国分断の悲劇が在日同胞の頭上を覆い始めた。48年には故郷・済州島で「4.3事件」が起きた。「島民の一斉蜂起を、米軍政と南の当局が弾圧し、約3万人の人たちが虐殺された。私の親せきも、いまだに行方不明の人がいる。妊婦たちの中には山に逃げて、そこで命を落とした人も多かったらしい」。その後朝鮮戦争が勃発。高さん一家はそのまま京都に住むことになった。 商売も繁盛し多くの人夫を雇うまでになった。「一時は平屋の木造トタンの宿泊施設に30人ほどの人夫がいたことも。その資金で滋賀県にパチンコ屋を出したり、おもしろいように商売が当たった時期もあった」。 民族教育に全てを
55年、総連の結成とともに夫は愛国運動にのめりこんでいった。朝鮮学校の教育会会長として資金集めに奔走、家を顧る余裕もなくなった。必然的に商売は高さんがみることに。隠れていた商才が開花し、順風満帆だった。 「家には活動家がいつも出入りしていた。ご飯やスープ、おかずをいっぱい作って置いていた。彼らがおいしそうに食べるのが、私たちの喜びだった」 民族学校に愛情のすべてを注いだ訳を高さんは、「家が貧しくて、一度も学校に通えなかったから」だと語った。しかし、故郷で学べなかった朝鮮語の読み書きを後に総連の成人学校で習得。さらに、商いのために独学で仮名を覚え、いつの間にかそろばんも学んだ。文字通り、日本で朝鮮人としてのプライドを持って生き抜くために、掴み取った「知恵」なのだった。 70年、予期せぬ不幸が高さんを襲った。あれほど愛国事業に没頭、組織を愛した夫が肺がんのため死去。 夫の遺志を継いで、今度は高さんが運動の第一線へ。事業は夫の連れ子に任せ、女性同盟の活動に踏み出した。「結局、店はその後の不景気と重なって倒産し、家も取られてしまった−。わが子も祖国で学びたいと帰国してしまって、日本では一人ぼっちになった」。 息子の呉炳致さんは60年、自らの意思で帰国。金日成総合大学を経て、政府機関紙民主朝鮮の記者となり、今では要職にある。 「息子のつれあいも大学の同級生で、出版社勤務。3人の孫たちも家庭を持ち、10人を超える大家族になった。毎年、祖国を訪ね、孫やひ孫に会うのが楽しみ」だと高さんは幸せそうにほほえんだ。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.11.14] |