〈人物で見る日本の朝鮮観〉 小磯国昭 |
小磯国昭(1880〜1950)は陸軍軍人、朝鮮司令官にもなるがその後、政治家として朝鮮総督となり、東条内閣が倒れたあとの内閣総理大臣になった人物である。8.15敗戦で小磯は東京国際裁判でA級戦犯として裁かれ、終身刑となる。その獄中3年間に小磯は、回顧録というべき『葛山鴻爪』と題した900ページにもおよぶ自叙伝を書きあげた。小磯から見れば東京裁判は「実に乱暴なもので、被告側の陳述や証拠はいっさい取り上げられない」(前述書、はしがき)不当極まる裁判である。よってこの書は、回顧録ではあるが、この裁判に反撃し、自ら備えるためのものである。本稿は、本書に示された彼のいわば社会観を横軸に、重要時期に朝鮮に関わった事実を縦軸に彼の朝鮮認識を見ようとするものである。 小磯は1880(明治13)年、父進、母錦子の長男として、父(警察署警部)の勤務先宇都宮で生まれたが、先祖は代々、今の山形県の新庄藩の藩士である。小学校は父の移動に従って転々とし、中学は山形中学に入る。彼は中学卒業後、士官候補生試験に合格し、一等兵や下士官を経て、一年間士官学校に入学し陸軍少尉に任官する。つまり彼の軍歴は、普通のエリート士官の軍歴と大いに異なっていた。中尉の時、露日戦争となり、彼の部隊も動員され、1904年3月下旬、朝鮮鎮南浦に上陸する。初の朝鮮体験である。初体験に照応する話が残っている。日本軍部は、この時将兵に「日韓会話篇」を渡しているが、小磯が朝鮮人に「この地は何という名だ」と朝鮮語で問うと、「オプショヨー」(ありません)と叫んでみな逃げていったという。このエピソードには、他国の領土に軍靴で踏み込んできた招かざる客と、略奪を怖れる朝鮮民衆の姿という構図がたくまざる筆によって浮かびあがってくる。小磯は、朝鮮家屋で宿泊することになっていたが「はなはだ不潔で殊に悪臭が高く到底這入る気になれ」なかったという。悪臭云々はこの時期日本人の文化的、民族的優越性の表現でもある。この時の師団参謀に宇垣一成がいた。 1935(昭和10)年12月、朝鮮軍司令官に親補される。陸軍中将である。時の朝鮮総督は宇垣である。小磯は各部隊視察のため朝鮮各地を巡っているが、遠く秀吉軍の朝鮮侵略と関連しては、名将李舜臣の故地で「当時、韓国の水軍が強かったことは、南鮮一帯、特に海岸地方の朝鮮人をして矜持を抱かしめ、自然今日、日本の施政に対しても一種の敵愾心を持っていると称されていた」と書いている。敵愾心は何も李舜臣の故地だけに限ったことではなかったはずだ。翌年8月、宇垣が総督の座を去り、後任は南次郎であった。南は小磯の士官学生時の教官であった。非常に近い仲である。 南の着任の夜、総督官邸で2人は食事した。南は言った。「おい、朝鮮統治の大本を何処に置くべき」か、と。「それはいうまでもなく内鮮一如でせう」と小磯は答える。「その通り」と南。1937年7月、中日戦争が始まる。11月、小磯は陸軍大将になる。翌年7月、朝鮮軍司令官を免ぜられる。その後、彼は平沼内閣と次の米内内閣に拓務大臣として入閣している。そして、1942年5月、朝鮮総督に親任される。時の総理大臣は東条英機である。総督就任時の彼の朝鮮認識は「大衆の中には反日独立の思想を抱懐しているものも少なくなかったし、鮮満国境に頻発した匪賊的暴動も常に朝鮮独立という色彩を帯びていた」。また、「元来、民族の根源がどうであろうと、数千百年の間、兎も角も独立して来た朝鮮を併合したということそれ自体が、果して賢明な処置であったか否かということが問題になり得るのである。然し其の可否はしばらく措き、明治四三年日韓併合成って既に三十余年、……、今更独立させても果して現在迄にかち得た文化生活を維持向上出来るかどうか気づかはれるし、自然執るべき最良の方策は朝鮮人をして名実共に真の日本人たらしめることにある」というものである。 小磯は着任後、朝鮮人官吏の登用、朝鮮人企業の推進、差別取扱諸規定の撤廃、朝鮮人政治関与の実現などに意を用いたというが、実際に行ったことは、1、2の親日派を貴族院議員に推薦したり、朝鮮人学徒動員を行ったり、1944年12月以降、朝鮮人に徴兵令を適用したりしたくらいのものである。ある時彼は官邸に朝鮮人学徒を呼んで意見を聴いたことがあるが、その席上、「今更、朝鮮の独立を夢みるのは九州や、北海道が独立を企図すると同じで馬鹿げた意味のないこと」と独立論を一蹴した。彼は就任後、『古事記』『日本書紀』に基づいて、五大神勅という神がかりを用い、さかんに同祖同根論を説いていたが、朝鮮独立の問題を九州や北海道と同列に置いたことで、彼の朝鮮認識の程度が知れる。 東京国際法廷で彼はその風貌から「朝鮮の虎」と呼ばれていた。国際法廷では朝鮮統治について問われることはなかったが、「虎」は朝鮮人にとっては風ぼうばかりではなかった。 この時期について七絶一首があるが、その転句と結句は「惜しむに堪へたり、鬩牆(兄弟仲の悪いこと、つまり南北朝鮮を指す)して大計をそこのう、荒涼たり八道涙潸々」がある。解放後朝鮮の荒れたさまに涙を流してくれているが、兄弟相争の原をなした38度線を日本が作ったことは忘れているようだ。(琴秉洞、朝・日近代史専攻) [朝鮮新報 2005.11.16] |