top_rogo.gif (16396 bytes)

〈高麗時代の名刹〉 霊通寺復元、落成式に参加して

不死鳥のように蘇った大伽藍

 さわやかな、よく晴れた秋の日、私たちは開城市の東北方に位置する、龍興洞の山中に復元された朝鮮天台宗の名刹・霊通寺を目指した。2005年10月31日の朝である。この日は、高麗時代の名僧・義天ゆかりの霊通寺の復元された伽藍と、その寺域の落成式であった。

復元された霊通寺の全景(写真=文光善記者)

 かつての高麗王朝の都であり、今日の開城市の都市部をめぐるようにして囲み、築かれているのが羅城である。高麗初期に築かれた羅城は、北方から侵攻してくる契丹族から、都・開城全体を守る城壁である。その羅城東側の弾正門の跡から、東北側8キロメートルの所に位置するのが霊通寺である。

発掘前の霊通寺跡の三基の石塔とその周囲(97年10月17日)

 私たちの車は、市の郊外から開城市民の飲料水を供給する開城湖の東岸を行く。起伏する丘陵を覆う樹林は、曲がりくねる湖岸の水に影を落とす。その景観はすばらしい。復元された霊通寺のために作られた道も快適であった。アスファルトでなく、突き固め、叩き締めて作り上げたという独特の淡い褐色の道は、周囲の自然の景色に溶け合い、心地よく楽しかった。

 私は8年前のことを思い出し、感無量であった。行く道はこの道とは異なる反対側の湖の西岸の道である。

 1997年秋、朝鮮社会科学院考古学研究所の韓仁浩教授らの案内のもとに、私は霊通寺寺跡を目指して歩いた。

霊通寺跡の第2次発掘後の憧竿支柱と三基の石塔付近(98年)

 朝鮮社会科学院考古学研究所と大正大学との共同発掘調査の対象としての霊通寺跡を確定するために、日本考古学界の重鎮・斎藤忠先生、大正大学の多田孝文教授たちと共に、湖岸の西側の道を歩いていたのである。その道は、いたる所で地割れし、道を覆う大小の石が歩行を困難にし、そのうえ起伏が激しく私たちを大いに悩ませ苦しめた。事情は東岸の道も同じであった。

 道の途中でトラクターが来たので、幸いとばかり乗せてもらったが、縦横に振動する激しい揺れに、振り落とされるのではないかと必死の思いであった。斎藤先生は、前の人の背中にしがみついていたが、いつ落ちるのかと心配で、あたりの景色を見る暇がなかったと述懐している。こうした思いに駆られているうちに、美しい小川の清流を渡って霊通寺の入口区域に着いた。

信仰の山・五冠山の南麓に建つ広壮な霊通寺

 目の前に立ちはだかるようにして建つのは、華麗な伽藍を誇るかのように復元された霊通寺である。3万m2に及ぶ広大な霊通寺跡に復元された伽藍の堂屋に陽光が照り映え、伽藍内屋に描かれた丹青の色も鮮やかに彩られ、廻る回廊の美しさと共に人々の目をうばった。

 大雄殿すなわち本堂とみなされる普光院の右側端の前に建つ大覚国師碑、すなわち義天の生い立ちと生涯、葬られた墓所、義天の業績とゆかりの高僧や弟子たちの名などを刻した碑文を記した石碑や、普光院の左側端の前に建つ憧竿支柱を確認したときのこみ上げる感動は、不思議な懐かしさであった。さらに、普光院中央前方部に立ち並ぶ三つの石柱を見たときの感動も同じであった。

普光院の左側の前に立つ憧竿支柱

 思えば1997年の秋、霊通寺跡の荒れ野に初めて立った時である。生い茂る雑草と朽ちた潅木、ススキや縦横に絡む蔦の根の中に、新羅末期と高麗初期の五層と、2つの三層の石塔が建っていた。幾星霜の風雪に耐え、その毅然とした孤高の姿に感銘し、瞠目したのであった。

 その石塔の東側には、亀の台石の上に立つ大覚国師碑、西側前方には、かつては霊通寺の大伽藍の前にあって、翩翻と旗を翻していたであろう憧竿支柱が今、不死鳥のように蘇って復元された大伽藍の前に、生き生きと往時のままに建っている。

 私たちが大伽藍の式場前に到着した時には、すでに軍事境界線を越えて、南の天台宗の信徒300余人が晴れやかな衣装を着て、にぎにぎしく集まり、学者やハンナラ党の国会議員も参加していた。

 落成式の法要に続いて大伽藍の前で式典の学術報告が行われた。祖国平和統一協会の金守埴会長の祝賀演説が行われ、私は霊通寺跡についての発掘調査と、復元された霊通寺の世界遺産的意義について報告した。

義天の肖像画

 信仰の山・五冠山の奇勝絶壁の南麓の下に位置する霊通寺に、朝鮮天台宗の始祖・大覚国師義天は、いま安らかに眠っている。

 義天は1055年、高麗第11代文宗王の第四子として生まれ、11歳で霊通寺に入り、万巻の書を読み、30歳の時、密かに中国・宋に渡り天台宗を極め、帰国して朝鮮天台宗を創始し、国清寺において宣布した。

 同時に、国内はむろん、宋、遼、日本から広く仏教書を集め、「続蔵経」として4000余巻を刊行した。義天は、1101年11月5日に入寂し、霊通寺に葬られた。(全浩天、在日本朝鮮歴史考古学協会会長)

[朝鮮新報 2005.11.24]