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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−4〉 独立運動家、教育者 趙信聖

 趙信聖は、奪われた祖国と同胞のためにいばらの道を歩んだ、美しくも殊勝な独立運動家であり教育者であった。

 彼女は、1867年平安北道義州の裕福な家庭に生まれた。しかし19歳の若さで未亡人となり、キリスト教に入門。熱心な信者として伝導に努め宣教師たちのあっ旋で日本に留学、下関の梅光高等女学校を卒業した。

学校経営

 帰国した彼女は、梨花学堂の教師として働いたあと、蓄えたお金を手に平壌行きの列車に乗った。そして、ソウル進明女学校創立当時活躍した餘袂禮黄と連絡、平壌進明女学校を設立したムン・ジョンチャンからその経営権を引き受ける。愛国心を持った若い指導的人材を育成するためであった。

 彼女はまず、平壌監営(官庁)の前にある小さなわらぶき小屋(後に西門高女寄宿舎の敷地となる)を購入した。そして車利錫、李尚俊と共に安昌浩が経営する大成学校から教師を派遣してもらう。

 日本語授業のたびに彼女はこう言った。

 「みなさん、日本語をしっかり学びなさい」

 −先生、日本は敵国ではありませんか、どうして日本語を学ばなければならないのですか?

 「いい質問です。日本語をしっかり学んでこそ敵国の文明を根こそぎ奪い取り恨みを晴らすことができるのです」

 けれども彼女の夢は実らなかった。日帝の弾圧により大成学校が門を閉めることになり、進明女学校の授業を受け持ってくれた大成学校の教師がいなくなったからだ。そして、進明女学校の運営は中断する。そのころ平壌のある有力者が建てた日新学校も経営難に陥っていた。

 そこに現れたのが青年紳士、金寿哲だった。彼は、進明女学校と日新学校を自分が経営すると申し出た。

 彼女は、伝導と啓蒙運動に専念することに決心し、金寿哲に学校経営を任せた。

 しかし、彼は進明女学校の生徒を日新学校に集め一つにしてしまった。

 これに憤慨した彼女は、キム・スネ、愛国婦人会、有志たちの援助で進明学校の再建に乗り出すが、結局は閉校することになる。

賛美歌で抵抗

 彼女が53歳を迎えた1919年、3.1独立運動が起きた。彼女もその民族抵抗運動に参加、何度も獄中生活に虐げられた。

 1920年の冬、大韓愛国婦人会事件で検挙された。彼女は獄中で女性たちと一緒に「独立万歳」の代わりに賛美歌を歌って抵抗した。

 「誰だ、賛美歌を歌ったのは! 主謀者は誰だ!」。怒る看守の前に彼女は真っ先に名乗り出た。「主謀者は私だ」。そのたびに体を蹴られ、「一日一食の独房生活3日間」が待っていた。

 1921年、彼女は新民会の女性指導者として先頭に立ち治安維持法違反で、6カ月の懲役を受ける。満期出獄するものの、再び1年2カ月の刑を被る。

 彼女は官憲に向かって笑いながらこう言った。「お前らが私を捕らえることができても私の魂まで捕らえることはできないだろう」。

 実際彼女は、3.1独立運動以前から海外に亡命した志士たちを助け、安昌浩、金九らと連絡を取ってきた。国内に派遣された密使はまず彼女に会うことから始めた。彼らを安全な場所に匿し、集めた献納金を資金として提供。時には流暢な日本語で刑事を誑かし、審問される青年を逃がしたこともあった。

同胞を愛し

 1927年5月27日、女性運動の統一戦線、槿友会が創立、その平壌支部が結成された時のことである。大柄で黒ぶちめがねをかけた彼女は、堂々と壇上に上がり聴衆に向かって開会の辞をこう述べた。

 「みなさん、遊べ、遊べ、老いたら遊べぬと言う歌がありますが、働く精神と努力、民族が心を合わせ一丸となる時、われわれの願いが叶えられるのです」

 会場からは大きな拍手が起こった。

 どこへ行っても雄弁をふるった彼女が一番好んで使った言葉は「ウリトンポ(わが同胞)」だったと言う。

 解放後、彼女は南で女性運動に参加する。しかし1952年5月6日、朝鮮戦争中にこの世を去った。

 婦人会ソウル市本部副会長兼文化部長の崔恩姫の提案で、彼女の告別式が執り行われた5月8日を「母の日」(今では父母の日)と定めることになった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※趙信聖(1867〜1952) 日本・下関、梅光高等女学校卒業。帰国後、梨花学堂で教鞭をとる。平壌進明女学校で指導的人材を育成。新民会に加入して女性啓蒙運動に従事。民族運動の先頭にたち獄中生活に虐げられる。槿友会新義州、平壌支会会長を務める。解放後、南で婦人運動に参加。

[朝鮮新報 2005.12.5]