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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 永井荷風

 永井荷風(1879〜1959)は小説家にして随筆家である。東京・小石川で父久一郎、母恆の長男として生まれた。荷風は「あめりか物語」「ふらんす物語」などで名を挙げ、「深川の唄」「すみだ川」などを次々に発表し、明治末期にはすでに文壇に確固たる地歩を築いた。大正に入ってからは、「腕くらべ」や「おかめ笹」などの代表作を発表し、大いに文名を高めることになる。その荷風の朝鮮認識をみようとするのだが、荷風は小説ではほとんど朝鮮に触れていない。だが随筆、または日記などでは触れているので、これにより荷風の朝鮮観をみることにしたい。

 久一郎は尾張の人で、東大の前身の大学南校を経てアメリカに留学。帰国後は官途につき、高級官僚を歴任し、退官後は経済界に入る。漢詩人としても知られる存在であった。

 荷風は東京の小学校で学び、英語学校や中学校に入るが高校入試に失敗する。この頃から小説修行をはじめ、広津柳浪の門をたたく。またフランス語を学び、ゾラに心酔し、ゾラの文学、思想を紹介することになる。久一郎は、荷風を実業家にさせるために渡米留学させるが、彼は文学修業に専念し、父の配慮でフランスに渡る。

 1908(明治41)年、帰国した時、荷風は父の思惑に全く反した「ひとまわり大きい新時代の文学者としての見識と個性の持ち主」(『日本近代学大事典』)であった。

 荷風は旺盛に執筆活動をはじめた。慶応大学の教授にもなった。荷風の政治権力不信と江戸趣味への傾倒は世の知るところだが、彼の政府権力不信のきっかけは幸徳秋水らのいわゆる「大逆事件」である。

 荷風は、幸徳らを乗せた囚人馬車が走って行くのを見た。荷風は大逆事件を政府権力によるでっちあげ事件と見透していた。ゾラは1894年フランスでドレフュス事件が起った時、ドレフュス救援に立ち上り、そのために禁錮に処せられたり、亡命したりした。しかし、「わたしは世の文学者と共に何も言わなかった」ことに「甚だしき羞恥を感じた」。そこで彼は、自らを江戸末期の戯作者のように、どんな政治的大事件がおきようと、「下民の与り知ったことではない」(以上の引用は「花火」)としたように、自らを「下民・戯作者」の位置に貶しめたのである。とはいえ彼の権力批判、軍部批判、権力・軍部に迎合する文学者への批判の眼が曇ったということではない。

 さて、彼の朝鮮観である。関東大震災時の朝鮮人虐殺に関し、「この度の大地震にも罪なき朝鮮人を殺して見んなぞとの悪念を起さず」(「猥談」大正13年4月「苦楽」収載)と書いている。彼は朝鮮人暴動流言を信じなかっただけでなく、虐殺された者を「罪なき朝鮮人」と認識していたのである。

 荷風に『断腸亭日乗』という日記がある。昭和11年4月13日条に、大阪のある波止場の児童預り所で、物を盗んだと日本人児童が朝鮮人児童を縛り、「さかさに吊して打たたきし後、布團に包み、其上より大勢にて踏み殺したる記事あり、小児はいづれも十歳に至らざるものなり…怖るべし、怖るべし、嗚呼怖るべきなり」と書いた。子どもたちの意識の中には、朝鮮人なら殺してもよい、との朝鮮人蔑視思想があり、その深さに荷風は怖るべきを感じたのである。

 戦中戦後、荷風の浅草通いは有名だが、次はその一こま。

 「オペラ館出演の芸人中、韓某とよべる朝鮮人あり。一座の女舞踊者春野芳子という年上の女とよき仲になり、大森の貸間を引拂ひ、女の住める浅草柴崎町のアパートに移り同じ部屋に暮しいたりしが、警吏の知るところとなり、十日間劇場出演を禁じられたりと云う。朝鮮人は警察署の許可を得ざれば、随意に其居所を変更すること能はざるものなりと云う。此の話をききても日本人にて公憤を催すものは殆無きが如し」(昭和14年1月28日条)

 この時期、特高警察の朝鮮人取り締まりは厳しさを増し、朝鮮人は住居変更の場合、必ず警察に届けるようになっていた。荷風は、この取り締まりの差別と不公平に怒っているのである。また、この話を聞いて「公憤」しない日本人、為政者と等質化した一般日本人に絶望している姿をみている。しかも彼は、「朝鮮人」と書いて「鮮人」とは書いていない。

 「楽屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて、日本の流行歌をうたう。声がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡をうたわせなば嘸ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに、公開の場所にて朝鮮語を用ひ、また民謡を歌うことは厳禁せられいると答へ、さして憤慨する様子もなし。余は言いがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき。彼国の王は東京に幽閉せられて再び其国にかへるの機会なく、其国民は祖先伝来の言語、歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや」(昭和16年2月2日条)

 『断腸亭日乗』にこの文言があるのを見て、あらためて荷風の大きさと凄さを感じることができる。ここには国を奪われた亡国民としての朝鮮人に対する同情と悲憤がある。1941年の段階で、朝鮮を日本の一部として見るのではなく、国として見ていたことは驚きを超える。また、言語を奪われていることに悲しみを表し、これらの民族的迫害に無関心な日本人に怒りを示している。高名なる数多の日本人知識人のこの時期の朝鮮認識に、荷風に匹敵する人のあるを寡聞にして私は知らない。

 市井に在って権力におもねららず、「世論」に迎合せず、その朝鮮観をゆがめざるは、まことに偉とするにたるべし。荷風散人よ。(琴秉洞、朝・日近代史研究者、おわり)

[朝鮮新報 2005.12.7]