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江田船山古墳からトンカラリン遺構へ 熊本・菊池川文化を訪ねて

高句麗特有の墓制

 九州・熊本県の玉名菊水町北原の清原丘陵を訪れたのは今年11月の中頃である。熊本県議会議員であり、水俣病対策特別委員会委員長にして、トンカラリン遺構の研究科である杉森猛夫さんの招きであった。

トンカラリン遺構の

 熊本県の西北に位置し、有明海に注ぐ菊池川中流にのぞむ菊水町の清原台地の丘陵には、広く知られた江田船山古墳が位置し、その東側には、トンカラリンと呼ばれている謎の隧道遺構がある。現在は主要地方道である、玉名・山鹿線が丘陵を引き裂くように走っているので、江田船山古墳とトンカラリン遺構は、あたかも相対しているように見える。

 清原台地の歴史的環境として注目されるのは、菊池川流域に分布している装飾古墳群である。日本全国の装飾古墳は、484基であると推定されている。そのうちの38.4%にあたる186基が熊本県に分布しており、しかもそれらの過半数が菊池川流域に集中している。このため、これらを含めて弥生時代から続く古代の遺跡、古墳や遺物を菊池川文化と呼んでいる。その頂点に立つのは江田船山古墳であろう。

 6世紀後半とされる江田船山古墳の横口式の家形石棺からは、国宝に指定されている金冠、金製耳飾、金銅沓、甲冑、銀象嵌の銘文をもつ大刀、鏡などの華麗な遺物が発見されている。これらの百済と新羅からの出土遺物によって包まれ、葬られた人物こそは、南部朝鮮から渡来した人物か、かの地と深く関わった大立者であることは明らかである。船山古墳が築かれた清原丘陵の原は、九州に広く伝わるバル(原)のつく地名であり、朝鮮語のボル(原)から由来している。

高句麗古墳との共通性が指摘されている江田船山古墳

 時代は後れるが、船山古墳の南東、指呼の間にトンカラリン遺構が位置する。全長445.1メートルにおよぶ地下隧道であるが、その形態は首を大きくもたげた龍線形状であるとも言える。

 1974年以来、これまでトンカラリン遺構はさまざまに論じられ、解釈されてきた。「信仰遺跡説」「排水路説」「朝鮮式山城説」「卑弥呼の鬼道説」などである。1978年の熊本県教育委員会による調査は、「近世に造られた排水施設」であるとしたのであったが、93年、農業土木の歴史的遺産を研究する会は、農業土木の見地からトンカラリンの排水路説を否定し、74年の原点にもどることを提言したのであった。こうした経過をたどって熊本県教育委員会は、2001年3月、「江戸後期から明治に造られた排水路である」とした見解を正式に撤回したのであった。

 杉森さんの案内で見たトンカラリンの洞窟遺構で、私が最も注目したのは、隧道の石組みの部分である。腹ばいになりながらも幾度も観察し、確認したのは石の組み方、築き方であった。その石積は、目的意識的な造りであって高句麗特有の墓制である積石塚や石室封土墳でみられる石積の方法に酷似している。この積石の方法は、積み重ねた上下の石が噛み合うように築かれ、長い年月を経ても容易に崩れない。この点を重視するとき、トンカラリンは、自然洞窟の隧道を目的意識的に利用し、人為的に石築工作した渡来文化との複合遺構であることが分かる。トンカラリンとは、朝鮮語のトングレルン(洞窟の陵)から転訛したのであろう。洞窟の墓所、祈り場所という意味である。

 トンカラリン遺構がさまざまな人々によって、古くから宗教的、信仰の場として利用されている側面も指摘されなければならない。それは、各民族が古くから持つ洞窟信仰を見ても明らかであろう。

 古朝鮮を建国したという檀君神話がある。今日の平壌から遠くない名峰・妙香山の南麓に「檀君窟」と呼ばれる洞窟がある。檀君誕生の場所である。(全浩天、在日本朝鮮歴史考古学協会会長)

[朝鮮新報 2005.12.21]