「人物で見る日本の朝鮮観 その光と影」 23人31回の連載を終えて |
2年前、本紙の文化部記者から本題での連載を依頼された。私はかつて、「祖国統一新報」と「朝鮮時報」に同趣旨で執筆し、これに何人かを加えて36人分の原稿を一冊にまとめて本社から「日本の朝鮮侵略思想」(新書版)を刊行した。それから数年経っていたのと、私がこの種の資料を集めているのを担当記者に察知されていたのか、前記の依頼となったのである。もっとも担当記者は、「侵略思想というよりも、朝鮮観に主眼を置いて書いていただきたい」との注文をつけた。私も侵略思想一本槍で日本人をとらえることには限度があると思っていたのでこの申し出を受け入れた。そして月に1人(1回また2回)の割合で書いて、2年間で23人(31回)に達したのである。 日本人には種々な考え方を持った人がいて、それぞれの生き方としているので、一概に「日本人はこうだ」と割り切るわけにはいかない側面があるように思う。本稿で取り上げた23人も朝鮮に重大な関わりを持っていると私なりに考えている。とは言え、欠けている人物も少なくないのは確かである。 各人物に対する寸評をもって終わりの辞としたい。 連載のはじめに雨森芳洲を置いたのは、日本人も朝鮮人も彼についてよい意味での誤解があるからである。芳洲は終始一貫、朝鮮に好意的であったのではない。朝鮮使節と接触していた外交官としての彼は、全くの国益追求の権化として朝鮮側と衝突したのである。佐田白茅は明治のはじめ、いわば「草の根」征韓論の主導者で、歴代の反朝鮮煽動家の先駆を彷彿させる動きを見せた人物である。この征韓論は、明治政権中枢から民衆に至るまでその狂熱に捲きこむが、薩摩藩出身の横山正太郎はこの征韓論熱に抗して割腹して果てる。この横山の死に西郷隆盛が弔辞を書いたこともあまり知られていない。樽井藤吉は、結局は侵略肯定となるが、朝鮮、日本対等の合邦論をはじめて唱えた人物である。勝海舟は幕末の対朝鮮連帯論者、そして征韓論者としての両面を併せ持った人でもあるが、明治の後半は全くの対韓、対清連帯論者として明治政権の大臣たちと対立した。朝鮮蔑視の俗流には全く与しなかった人物として記憶される存在である。 志賀重昴、岡倉天心は、日清、日露戦争で勝った帝国主義的興隆期を代表する文化人、ジャーナリスト、いわば司馬遼太郎好みの人物たちで、日本にふみにじられた朝鮮とその民族の痛みには全く関心のない文化性を持った人物たちである。長谷川好道はあの不法な乙巳保護条約締結時、水も洩らさぬ軍事的配置をし、朝鮮の各大臣を畏怖せしめ、併合前に朝鮮に武断統治を布いた典型的日本軍人である。大隈重信は長い明治の政界で第一人者たらんとして、遂に伊藤博文を抜けなかった非運の人と言える。これが彼の朝鮮政策によくでている。種々に発言するが、結局は伊藤の敷いた路線のあと追いであった。幸徳秋水、片山潜は明治初期社会主義の代表的人物である。芥川龍之介の「侏儒の言葉」中の「或自警団員の言葉」は、当時の『文藝春秋』誌に載ったものだが、全集や単行本ではなぜか削除されていた。最近刊行のものにはこれが載っている。「況や殺戮を喜ぶなどは」は現在でも有効な言葉である。 吉野作造は朝鮮独立について全く肯定的だった、と言えばいささかの疑問は残る。しかし、大正全期にわたって展開された朝鮮論は、当時の日本社会の朝鮮認識の迷妄を打ちくだく清新なものとして高く評価したい。布施辰治は、戦前、戦中、戦後を通じての朝鮮人の最善の友であり、そして朝鮮人のために涙を流す義の人であった。布施辰治は朝鮮人が絶対に忘れてはならない一人である。夏目漱石は書く予定がなかった。たまたま担当記者と話をしている時、私は漱石の『満韓ところどころ』の朝鮮記述と同時期の日記での朝鮮記述に差のあることを言及したら、記者はすかさず「先生、それを書いてください」と切り込んできた。なぜ『満韓ところどころ』が中途で終わったかについては、数多い専門研究者にも指摘はないようだ。 中野正剛は言論人、政治家である。しかし、朝鮮に帝国憲法を適用すべき、と説いたのは彼が最初である。これは当時、驚天の提案で、この鋭さと大胆さが、後年、東条の独裁と衝突し、割腹となる。もし、朝鮮に対する提案が採択されていたら、と考えてみないでもない。日本人が朝鮮人の心になりきる、またはその心に密接するということは容易ではない。その稀有な存在が浅川巧である。その意味で私は金子文子と浅川は好対照をなす人たちだと思う。高浜虚子は小説「朝鮮」で彼なりの朝鮮および朝鮮人像をえがいているが、何よりも1911年という時点での万景台が先入観なしで写されていることに興味を持たせられる。 石橋湛山はまこと骨太の言論人であった。その植民地放棄論は彼が優れていることを今に証するものと思う。石原莞爾は、現在も論ずる人が多いが、本質はアジア諸民族は天皇の下で一家をなせ、ということである。朝鮮も例外ではない。宇垣一成、南次郎、小磯国昭の歴代朝鮮総督は、ファッショ統治期の総督である。朝鮮人の日本人化の総仕上げ期の総督として、政策の苛烈化と共にその言動は注目される。 永井荷風を最後に置いたのは、時機の問題ともからむが、私としては、日本人荷風をして、為政者と等質化した一般日本人を叱ってもらいたかったからである。 ともあれ連載は終わった。当方としては、書くべきことを書いて、ホッとしている。読者諸賢のご叱正を賜わらば幸いである。(琴秉洞、朝・日近代史研究) [朝鮮新報 2005.12.28] |