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〈投稿〉 「ウリハッキョの良い点を見つめ直して」

 先日、本社に一通の投稿文が届いた。文章には、母子家庭で生活、養育費を稼ぐため母親が朝早くから夜遅くまで働く中、日本の学校に通っていた子どもたちの非行行動が進み、中1の次男がついにはバイク事故に遭うという内容が記されていた。次男はその後、愛知中高に編入。中級部3年生の現在、朝高受験の準備に励んでいるという。以下、内容を紹介する。

 今の時期になるとオモニたちの間では、子どもを日本の有名校に進学させるために、「受験をさせた」「推薦を受けた」という話が当然(?)、自然(?)なことのように行きかっている。親の幻想としか思えないようなこの現象を見て、私は、私の妹とその息子の日本の学校にはない朝鮮学校のすばらしさを実話を通して知ってもらいたいと思いペンを執った。

 女性同盟や初級部オモニ会の活動をしながら、子どもの教育に情熱を注ぐオモニたちでも、先のような会話に何の疑問も持たないようなこの頃。たくさんの方たちに朝鮮学校のすばらしさを見つめなおしてもらいたい。教育熱心な方たちの中には朝鮮新報の愛読者も多いと思い、投稿しようと思った。

 現在中級部3年生になる甥っ子は、朝高受験を控えて朝鮮語の勉強に励み、妹は、心置きなく息子を朝高へ進学させる気持ちでいる。甥っ子は、春から日本の高校へ行こうとする同級生たちに、考え直すよう話してもいるそうだ。

 数日前、45歳になる妹の携帯電話のストラップの中からひとつのキーホルダーを見つけた。「仕事一筋」と書いてあった。どうやら、朝高時代の古い友人からもらった物らしい。私は思わず、妹そのもの! と思った。

 妹は、20歳の長男を筆頭に3児のオモニ。今春、末っ子の次男がやっと高級部生徒となる。子育てはひと段落したとも言えよう。

 夫の強い要求を汲んで、子どもたちは3人とも日本の幼稚園、日本の小学校…へと通わせていた。

 そんな妹もさかのぼること10年、う余曲折を経て、女手ひとつで3人の子どもを養うことになる。稼ぐアボジ役と育てるオモニ役を両立するのは並大抵ではなかった。必然的に長男も中学生になるから…という気持ちが「仕事一筋」となっていき、早朝出勤、深夜帰宅の生活の中、子どもとの距離はどんどん離れていく。仕事と子育てを同時進行させつつも、その比重は仕事へと傾いていった。

 長男が中学3年生の頃から子どもたちは順に手を焼くようになり、重なる「呼び出し」も日常茶飯事。ついに末っ子の中学1年生の次男までも低年齢にもかかわらず、良くない仲間たちと集っては無断欠席、深夜行動を繰り返すようになっていた。

 それを叱る母親とはいたちごっこのような日々が続いていた。

 そんなある日、私はどんどん道が反れる中1の甥っ子を、私の子どもが通う愛知中高へ無理矢理に連れて行った。

 いやいや進む甥っ子の足は重く、校内を案内する教務主任先生の会話も上の空。(何でこんなところに連れて来られたんだろう?)と言わんばかりの表情だった。

 早朝に夕飯を作り置きしておいて、減り具合で食事の確認をする毎日。毎晩、会話にならない会話とすれ違う心中。いっそう、仕事なんて辞めて、子どもとしっかり向き合わねば…! と何度も思い悩み、苦しむけれど、答えは出ないまま妹は精神的にも限界状態に達していた。そして、追い討ちをかけるように中1の甥っ子がバイク事故を起こした。

 駆けつけたときにはとても元に戻れるような状態とは思えず、ただ祈るばかりの私たちだった。

 一命は取り止めたものの、腫れた顔と開かない口からは何も食べれない、しゃべれない。闘病生活が1カ月あまり続いた。

 妹の生活リズムは、自宅にいる2人の子どもと病院にいる次男との2重生活へと変わった。家事は消灯時間後と早朝の時間帯、病院からの出勤もひん繁だった。

 甥っ子の状態が少しずつ回復し、意思表示ができるようになったある朝、仕事に向かう母親を見て息子は、「オモニ、今日も仕事? 行かないで!…」と声を絞る。目にはあふれんばかりの涙。まだまだ甘えん坊の13歳の息子。

 言うまでもなく、妹は、開かない口にスプーンでおかゆを、ジュースを飲ませてあげたい。息子の手となり、足となり世話をしたい…と思いながらも、定時になると後ろ髪を引かれるような思いで病室をあとにする。息子に見られぬよう、気づかれぬよう、流れる涙をエレベーターに乗るまでぬぐわない。後ろを振り向かない。

 ひとりでどれだけ泣いただろう、どれだけの体力を消耗しただろう。辛く苦しい毎日だったが、この期間に今までには考えられないほど親子の会話が成り立っていった。

 そして、ついに退院を目前にしたある日、妹ははっきりと息子に言った。「2年生からはあの朝鮮学校に行くんだよ!」

 「イヤだ」という返事は甥っ子にはできなかった。

 母子ともども一大決心であった。もちろん、母も子も、それに私も、従兄弟たちも不安だらけのスタートだった。

 当初、文字や言葉がわからず、とまどい、先生や級友たちを困らせたりもしたが、日本の学校ではありえない異なった環境で、甥っ子はどんどん変わっていった。

 とくに中2、中3の担任がサッカー部の監督ということもあり、部活を通してウリハッキョを感じ取った部分は大きかったようだ。

 昨年の学生中央体育大会優勝、そして先日静岡で開催された中級部選抜中央大会準優勝は、親子ともども燃えたひとときであった。

 試合中、チームメイトに大きな声で檄を飛ばす甥っ子。

 「チョンファッキ!(正確に)」「アジッ、アジッ!(まだまだ)」

 私と妹は、(ウリマルもまだ未熟なのに、意味わかってるのかな?)と、不思議でしかたなく、ほほ笑んでいた。

 プレーに熱く、失点に悔し涙の甥っ子。グラウンドで全力を尽くす息子を必死に応援し、見守る母親。…こんな光景、2年前までまちがいなくなかった。親だけではカバーしきれない子育ての部分を、ウリハッキョが、ウリトンムたちが自然に補ってくれる。

 甥っ子にとって、近所の幼なじみも友だちだが、今、ウリハッキョでたった2年間だけどつき合ってきたトンムたちもこのうえなく貴重な仲間である。

 妹にとってあの辛い看病生活のとき、親身になって心配してくれた旧友たちや先輩たちは、朝高を卒業して30年経っても変わらぬ友情を持ち続けるトンムたちである…。

 母も子も、チョソンサラムの血を、今も昔も変わらぬウリハッキョの良さをおのずと実感したのであった。

 今、子どもを日本の学校へ通わせる朝高出身の親があとを絶たない。子どものために、将来のために…。

 夢に向かうことはすばらしいことだが、肝心な人間形成をウリハッキョでしっかりしてからでも遅くはないのではないだろうか。

 骨組みが固まらぬまま異なった環境に置いたとき、埋まる穴も埋まらず、小さな穴も大きくなり、夢も目標も一瞬にしてもろくも崩れ去ることがあることも知ってほしい。

 今、正された環境で学ぶ甥っ子と妹は、少ない親子の時間に、昔ながらの共通の先生の話題で時間が経つのも忘れるそうだ。

 そして、甥っ子15歳の誕生日のプレゼントの希望を聞いたときに、甥っ子からは、「何もいらない! オモニがずっと元気でいてくれたら…!」との返事が返ってきたそうだ。

 若干15歳。濃厚な中学3年間を体験し、変わっていった甥っ子。新春の大阪朝高サッカー部の全国選手権大会での大活躍に熱いものを肌で感じ、今春、愛知朝高進学に胸をふくらます。

 女手ひとつで家族を養う「仕事一筋」の妹の生活には変わりはない。あるとすれば、子どもの転校により、「不安なき仕事一筋」になったことだろう。(金英玉、愛知中高オモニ会会長、47)

[朝鮮新報 2006.2.11]