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金萬有、李相均氏を偲ぶ 植民地、分断、在日、そして6.15

金萬有氏

 20世紀は朝鮮民族にとって、「植民地支配」と「分断」に抗い、それらを克服して、祖国の独立と、統一に身を投じ、自らを人間的に解放しようとする苦闘の時代でもあった。

 日本による植民地支配、朝鮮戦争、南北分断と続く朝鮮民族の苦難の近現代史を通じて、いったいどれほどの同胞たちが、生まれ育った土地を涙ながらにあとにし、どれほどの同胞たちが異郷に客死しただろうか。

 東京都足立区にある西新井病院の創設者、院長であり、平壌の金萬有病院の名誉院長である金萬有さんと在日本朝鮮人高知県商工会会長の李相均さんの2人もまた、昨年末から年始にかけて、不帰の人となった。

 金さんは享年91歳、李さんは81歳だった。2人の他界は、分断の悲しみと痛みを背負っている私たちに今一度、その深い傷跡と運命の過酷さを教えるものだった。

 2人とも植民地支配下の祖国で生を受け、愛する故郷と肉親から引き裂かれて渡日。解放後も、あらゆる民族差別や弾圧に抗いながら日本で民族の誇りを心に刻み、一人は医師として、一人は商工人として生き抜いてきた。そして、今まさに、00年の6.15共同宣言によって、民族統一の曙光が昇りつつある時に、その日を迎えることなく逝ってしまったのだ。

李相均氏

 金さんと李さんには本紙の大型連載企画「語り継ごう20世紀の物語」「生涯現役」の取材で長時間にわたり、その半生について語っていただいた。

 金さんは故郷・済州島モスル浦の海の美しさを、そして、李さんは全羅北道井邑の山波の忘れがたい気高さを、しばし、瞑想にふけりながら、思い出していた。日本によって奪われ、蹂躙された故郷の山河への深い愛とその地で共に暮らし、共に遊んだ故郷の人々への懐かしさ。その望郷の念こそが、愛族愛国運動の豊穣な源泉となったのである。

 2人とも、最初は書堂において漢文素読を中心とする伝統教育を受け、後に普通学校に通った。金さんには「村一番の神童」と呼ばれたエピソードもある。学問の志が高かった金さんは小学校時代からとび級で進級し、小学5年でソウルに出て、中学に入学。ここでもとび級で卒業。17歳で高校に入学したが、抗日独立運動にめざめ、反日ビラを撒いて治安維持法違反の容疑で逮捕され、約2年間の投獄と拷問を体験する。

 「さかさに吊るされ、バケツで水を飲まされる。『貴様ら生かしておくわけにはいかん』」と死ぬほど殴られたという。

 しかし、不屈の精神で耐え抜いた。服役後、帰郷するが、官憲の徹底的な監視の下に置かれ、やむなく日本への勉学の道へ。18歳だった。

 一方、李さんは、祖国解放前年の44年6月、断末魔にあえぐ日本官憲によって、村の野良仕事中人狩りにあい、日本に強制連行され、北海道の美唄炭鉱に送られた。19歳。ここではタコ部屋と呼ばれる劣悪な長屋に押し込められ、炭鉱の中の大工仕事に就いた。時には、日本語の通訳のような役目も押しつけられた。李さんは当時のことを「面従腹背、コツコツ仕事をこなすふりをして、じっと逃げ出すチャンスをうかがっていた」と述懐していた。そして、信用できる日本人の協力を得て、2カ月後、脱出に成功する。李さんはこの時の恩を生涯忘れなかった。その後、高知県内で10数店舗のパチンコ店を営むようになり、仕事漬けで旅行一つしたことのない多忙な中にも、一度だけ妻を伴って美唄を訪ねたことがある。「もちろん、当時の人はもう誰一人いなかった。でも、タバコ屋さんが同じ場所にあったので、お礼に10万円渡した」。どんな所でも、人間同士の出会いがあり、民衆同士の助け合いがあったことを示す秘話ではなかろうか。

 その後、金さんは東京医専(現、東京医科大学)を出て、医師となり、53年に西新井病院を、86年に平壌に金萬有病院を建てた。誰でもが優れた治療を受けられるようにというヒューマニズムがその精力的な活動の土台にある。その傍ら、77年には2億円の私財を投じて金萬有科学振興会を発足させ、82年に文部省認下の財団法人となった。

 金さんの悲願は「在日同胞学者からノーベル賞受賞者を」だった。その夢を受けてすでに来年で30年を迎えるこの事業には、400件近い若い科学者の研究実績に対して総額2億円以上の助成がなされた。

 李さんも朝鮮大学校はじめ民族教育に尽力した。裸一貫からあらゆる辛酸を嘗めたすえに財をなした同氏は、東京や高知の朝鮮会館建設の際にも、率先して協力する一方、全国に先立って、四国の民族学校に通う子どもたちへの奨学金制度を作った。また、年に一回四国4県の朝鮮人商工会を代表して、高松国税局の当局者と会い、苦難の道を歩んできた在日同胞の歴史を語り、「日本は自分の行為に目をつぶり、他国を蹂躙した足跡を忘れてはならない」と説き続けた。李さんはなぜ、この説法が大事なのかについてこう答えた。「それは日本の官僚に朝鮮人の生の声をぶつけ、朝・日の過去の清算に少しでも役立ってほしいからだ」と。

 未来を信じ、次の世代のために惜しみない愛情を注いだ2人。受難の20世紀と格闘し、同化を拒み、常に民族統一を希求し続けた生涯だった。その高い志はいつまでも在日同胞の脳裏に記憶され、生き続けるだろう。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2006.3.1]