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〈解放5年、同胞新聞事情−B〉 経済紙

 今回は、同胞経済新聞についてみる。

 解放後から発行された同胞経済新聞は10紙を超えるという。すべて手元にあるわけではないので中途報告にすぎないといえるが、現在の同胞商工団体活動の中軸である商工連合会が発行する「朝鮮商工新聞」の系譜につながる新聞資料を中心に解放後の同胞経済新聞事情をみてみる。

商工会報(B5版=47年7月13日号)
朝鮮商工時報(48年6月1日号)
朝鮮人経済時報(48年6月15日号)

 経済紙では、新聞とは言いがたいが在日本朝鮮人商工会連合本部が1947年7月13日から発行した「商工会報」がある。これは46年2月24日に結成された在日本朝鮮人商工会連合本部の機関紙に当たる。創刊号は第1巻第101号となっており、16ページに及ぶ。ここでは商工会連合本部の宣言、綱領、沿革、役員をはじめ当時の祖国の事情、同胞企業、商工活動などが詳しく記録されている。発行所は在日本朝鮮人商工会連合本部浅草分室(東京都台東区浅草壽町2−2)、編集兼発行人は李晶となっている。編集後記には「此の会報は商工会の仕事に関する『手伝者』であり、商工人の実務の『虎の巻』であり、会員の親睦の為の『奉仕者』であらねばならぬ」と編集の姿勢を明らかにしている。また、国文(朝鮮語)を持って会報を編集する心算であったが、活字や諸般の煩雑な問題のためやむなく当分日本文で編集するとした。

 つぎに、代表的な同胞経済紙として「朝鮮商工時報」があげられる。これは東京朝鮮人商工組合連合会の機関紙として、48年6月1日に創刊(旬刊)された。創刊号の頭で本紙は「行く行くは本国の商工界は勿論、広く海外の貿易事業団と密接な繋がりを持し、商工技術の啓蒙紙として又取引の紹介紙として一般同胞にも配布されることを確信」すると発行の趣旨を記している。発行所は東京都港区赤坂一ツ木町64番、関東朝鮮人商工会、発行人は李在東となっている。

 「朝鮮商工時報」は、商工会組織の強化、在日朝鮮人経済団体の統合など、そして商工業者の原資材購入、販路の開拓、「外国人の財産取得に関する政令」(取得令)適用反対闘争、同胞信用組合の設立、税金対策など同胞経済活動におけるメディアとしての重要な役割を担ったといえよう。一例を挙げると、取得令適用反対闘争の見出しには、「戦線を統一して総力で闘へ外資$ュ令の陰謀を暴露反撃して生活権と営業権を防衛せよ」(同紙1949年2月15日)、「総決起して反撃せよ!外資政令は我々の生存権をはく奪せんとする陰謀だ 闘えば正義は必ず勝つ!」(同紙3月15日)。今日から見るならば過激な感もするが、先導的で動員的な見出しといえる。

 「朝鮮商工時報」は、1949年6月に在日本朝鮮人商工会連合本部に引き継がれ、1957年1月に「朝鮮商工新聞」と改称(東京朝鮮人商工便覧1959年度版)され、今日に至っている。「朝鮮商工新聞」は今年3月21日付で累計2419号に達する。上記したように「朝鮮商工時報」は当時の関東朝鮮人商工会の機関紙として発行された。当会の新規約を見ると関東、信越地方まで広範囲を網羅していたことと各商工団体が統合されていく過程で、「朝鮮商工時報」が商工会連合本部の機関紙「朝鮮商工新聞」に発展していったと考えられよう。

 「朝鮮人経済時報」も1948年6月15日に創刊(旬刊)されている。同紙は東京朝鮮人商工組合連合会(会長李中冠)の機関紙として発刊。発行所は、東京都中央区京橋2−1、編集兼発行人は李元植となっている。創刊号では、朝聨中央総本部議長韓徳銖氏、経済部長孫万吉氏などが祝う言葉を送っている。創刊の辞では「在留同胞経済人の機関紙として、或いは公僕となってなんらむくいられることを期待しないでその使命を果」たすと述べている。同紙は、全国的な組織として在日本朝鮮人商工総連合会(1948年7月16日結成)ができたあとに、商工団体の統合が繰り返される中で、「朝鮮商工時報」に解消していったと思われる。

 大阪では「朝鮮経済新聞」が発行されていた。第2号の発行日は1947年5月21日となっているので、5月10日前後に創刊号が出たと思われる。発行所は朝鮮経済新聞社で、住所は大阪市東区今橋2丁目1となっており、編集印刷権発行人は徐康家となっている。

 解放後のいくつかの同胞経済新聞からも、原材料(物資)、技術、販路、人材、経営手腕などすべてが不足し、欠乏していた中で生業として、企業活動として商売や経済活動を起こし力強く進めた同胞商工人の気迫が読み取れる。(呉圭祥、在日朝鮮歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2006.3.29]