top_rogo.gif (16396 bytes)

在日同胞2世 57歳で総代、神奈川大学卒業 朴淑子さん 学部、学年で学業成績トップ

 3月25日、神奈川県横浜市のパシフィコ横浜(国立横浜国際会議場)で神奈川大学(山火正則学長)卒業式が行われ、横浜市在住の在日同胞2世、朴淑子さん(57、主婦)が第2経済学部経済学科の総代として舞台に上がった。淡いクリーム色の唐衣(タンウィ)に渋い小豆色のチマ。上品な金箔と刺繍をあしらった朝鮮の民族衣装を堂々と身にまとい、朴さんは卒業証書を受け取った。卒業式および学位授与式では、学部、学年で学業成績トップの者に贈られる最優秀学生賞も受賞。晴れやかな笑みが朴さんの顔をいっそう輝かせていた。

12年間の民族教育

山本通経済学部長から卒業証書を受け取る

 1948年、東京都内で生まれ、東京都大田区の東京朝鮮第6初中級学校、北区の東京朝鮮中高級学校(高級部)を卒業した朴さんは、その後、同和信用組合(後の朝鮮信用組合)の職員として働いた。朝信には16年間勤務。仕事に対する前向きな姿勢と実務能力を高く評価され、東京朝信では初の女性副支店長にも抜擢された。

 朴さんは、朝高卒業後、大学進学の希望を抱いていたが、それはかなわなかった。当時、1クラス50人中、女子で朝大に進学するのは3、4人程度。日本の大学へは全16クラス約800人中、わずか2、3人だったという。

 「私が日本の大学へ行きたいと思ったのは、履歴書などの最終学歴の欄に『高卒』ではなく、『大卒』と書き込みたかったから」と、さらりと言うが、朴さんの言葉の裏側には学問に対する欲求を満たしたいとの強い望みが隠されていた。

 朴さんが多感な少女時代を送った頃、在日同胞たちは総連の旗のもと一致団結して社会主義祖国を熱烈に支持していた。「朝高3年間の思い出といえば、毎日のように『集団体操』の練習をしたこと」。もっと勉強していろんなことを学びたかったとの朴さんの素朴な願いは、数十年の時を経ても色あせることなく胸の内で燃え続けていた。

夜間中学から10年かけて

 50歳を手前に一念発起。朴さんは「まず夜間中学に通い、学生時代に学べなかった英語を学ぶことから始めた」。朴さんの学生時代、米ソ対立が激しさを増す中、朝高生たちの大半は外国語の授業でロシア語を選択していた。「大学の授業を受けるため、どうしても英語の勉強が必要だった」。

 47歳で横浜市立平楽中学校夜間中学に入学。同級生はほかになく、先生とマンツーマンで授業に励んだ。「教育熱心な先生が多かった。先生の中には『在日』について逆に質問してくる人もいて。私が質問攻めにあう日もあった」と、懐かしい過去を振り返る。

 夜間中学卒業後は横浜市立港高校定時制を経て、2002年4月、神奈川大学に入学した。

3倍努力の大学生活

 「大学では若い学生よりも3倍努力した。若い人に比べて記憶力が衰えて知識が入りにくいし、出やすいから」と、朴さんは講義には常に最前列に着席。「皆勤賞があったらもらえるくらい」。雨の日も、雪の日も、辞書など重たい書籍がいっぱい詰まったリュックサックを背負い、一日も欠かさず授業を受けた。

 「大学に行って、先生の一言ひとことが財産だと思った。大学の先生が一生涯かけて研究したものを聞ける。これほど楽しいものはないと感じた」

家族、友人、定時制高校の先生とともに(右から3番目が朴さん)

 朴さんは心底「教育は財産」だと考える。「お金はためても使ってしまったり、人に取られたりする心配があるけど、知識は誰にももっていけないから」。

 そんな勉強熱心な朴さんの周りには、試験前になるとたくさんの若い学生たちが寄ってきた。

 「1年生のときには何がなんだかわからなくて、学生たちにそっくりノートを貸してあげた。でも、2年目からは顔も知らない学生には、『私はあなたを知りませんので』と断った。授業もろくに受けていない学生が、試験のときだけ要領よく勉強しようとするのはまちがってるでしょ?」

 卒業式には全6学部から約4000人の卒業生が参加した。朴さんは、第2経済学部経済学科卒業生114人の総代として、山本通経済学部長から卒業証書を受け取り、学業成績最優秀学生賞と合わせて壇上へ2度上がった。

60代は地域社会に貢献

卒業式、学位授与式では卒業成績最優秀学生賞も受賞した

 40代後半から50代にかけて、夜間中学、定時制高校を経て、大学卒業と学問に対する達成感を味わった。

 朴さんは大学卒業、総代に選ばれた喜びを、朝高時代の担任だった全潤玉先生にも報告した。全先生は、「望みをかなえるために最後まであきらめずにがんばった淑子は本当にすばらしい。教え子は多いけれど、57歳で大学を卒業した学生は淑子だけ。これまで日本の夜間中学、定時制高校卒業の際にも連絡をくれ、ついに大学を卒業したとは本当にうれしい」と熱く語った。

 卒業後は大学院へ進学しないかとの話もあったが、朴さんは自身の60代を地域社会のために捧げたいと考えている。

 「私たちはしょせん他国で暮らす外国人。地域社会ではボランティアなどを通じて社会に貢献しなくては生きていけない。テレビでは連日、拉致報道が繰り返されるが、地域住民たちにどんな状況下でも『新井(通称名)さんは良い人だよ』と認められるように地域で根を張って生きていきたい」。

 朴さんは新たな意気込みを語っていた。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2006.4.1]