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〈朝鮮人強制連行と麻生炭鉱 −上−〉 労働争議に警察、暴力団を動員

 九州地方朝鮮人強制連行真相調査(1974年4月)

多くの朝鮮人を強制動員した佐賀唐津炭鉱

 私たちは約20年間にわたる調査団(団長、尾崎陞元日弁連会長)を受け入れるため、前年1年間をその準備にあてた。以下はその間に入手した情報と本番で、明らかになった数々の資料や証言である。

 総連行者数155万人、うち全国炭坑に34万人、筑豊地区に約15万人という被連行者は、植民地下の総督府や、官憲の介入による強制であった。が、それ以前にも早くから民間による連行があった。

 すなわち、1869年(明治2年)に「鉱山開放令」が布告され、それまで藩制下にあった石炭の採掘が、地場資本や中央資本家に解放され、三池や高島の官営、唐津の海軍炭坑(明治4年)をはじめ、麻生芳雄の忠隈炭坑(明治6、7年)…と、1万坪以上の石炭王国のはしりを形成した。麻生はさらに、赤坂、綱分、吉隈、豆田、山内、上三緒…と、次々に開坑し、政商ともいうべく政府有力者とも大きなコネを持つに至ったのである。

朝鮮人労働者に過酷な労働を強いた麻生赤坂坑

 麻生太郎の曾祖父大吉は、ついに「筑豊石炭鉱業連合会」の会長として、すでに応召者続出の煽りをくって、決定的に不足をきたしていた労務者を補充するために、連合会翼下の各社(貝島、安川、蔵内他)を代表して「炭礦稼働者補充ニ関スル陳情書」(1934年、昭和9年)を政府に提出した。政府は、三井、三菱、古河、住友などの大手が、同様に労務者不足を訴えていることをかんがみ、その打開策として植民地からの移入を検討した。そして「労務動員実施計画綱領」なるものを閣議決定(1938年、昭和13年)し、同年7月、内務省次官から「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル件」を通達した。いわゆる強制連行はここに始まる。

 しかし私たちは、閣議決定以降だけを強制連行の区分にしてはならない。それ以前に「日朝修交条約」(1897年、明治30年)があり、「乙巳保護条約」(1905年、明治38年)という不平等条約に次ぐ「日韓併合条約」(1910年、明治43年)によって、名目的にも実質的にも朝鮮半島を支配し、植民地化して、国土も民族も支配下においたのである。民族の移住は、自由意志による移住ではもはやなくて、国家権力による強制的移入であった。だから明治以降のわが国の納屋制度にみられる、納屋頭による賃金のピンハネや、さがりクモと称されるようなリンチまで横行し、現場からの逃亡が頻発したのである。

 こうした圧制は、戦時下においても変わりなく続いた。福岡県による文書「縣政重要事項」(1944年、昭和19年)や、「事務引継書」(1945年、昭和20年)によると、麻生鉱業所の移入者数7996人に対し、逃走者数4919人(61.5%)にも及ぶ。各事業所が雇い入れていた「請願巡査」の監視下においてすらこうした実態であったことは、明治、大正、昭和初期の様子を彷彿とさせる。

 麻生朝鮮人争議

 麻生鉱業所の圧制は、一日二食、十数時間労働、休暇なしにもかかわらず、賃金は他鉱の1/2、遅配、未払い続きといった実態からも如実に窺える。

 1932年(昭和7年)7月25日早朝から、上三緒坑朝鮮人66人がストライキに突入した。これは、上記の実態は言うまでもなく、上三緒坑・豆田抗の合理化による244人の配置転換、78人の解雇が直接の引き金だった。

 争議は、上三緒坑から麻生吉隈坑へ広がり、吉隈坑では待遇改善のビラが撒かれた。それには@賃金3割値上げA労働時間10時間厳守B処遇改善…が掲げられていた。各坑一成争議は、7月−7日間、8月−31日間、9月−3日間、延べ41日間におよび、会社側は警察や特高をはじめ、暴力団まで動員して争議団と激突した。

 にもかかわらず、九州水平社の花山清や松本吉之助らは、争議団に救援米やその他の物資援助を惜しまなかった。麻生鉱業所の構造支配は、特殊風呂=Aエタ風呂=i上三緒坑)に見られるほど、部落差別までも経営手段にしていたのであったからにほかならない。

 こうした朝鮮人坑夫と被差別部落との連帯は、この争議に関して、とくに階級的視点からも特記すべきであろう。

 1932年9月3日、現場復帰109人、解雇191人をもってこの争議は終結した。(芝竹夫、ムグンファの会)

[朝鮮新報 2006.4.5]