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〈投稿〉 靖国神社の「遊就館」を観て、居直りではなく 真の平和築こう

 東京の桜の名所でもある千鳥ヶ淵、その脇に位置する靖国神社を訪れた。

 どうしてもじかに足を運び確かめたいことがあったからである。

 日曜日であるからか訪れる人も多い中、みなと一緒に本殿に向かった。

「零戦」と大砲

 ここが今いろいろ取り沙汰されている場所であることを確認できた。

 その足で本殿横にある「遊就館」に800円の入場料を払い、約2時間でも回りきれない展示室をおどろきと複雑な気持ちで回りきった。

 入り口には復元された「零戦」艦上戦闘機、そして戦車や大砲、人間魚雷艇、戦艦の模型など、なまの戦争兵器を見る私は圧倒されるばかりであった。

 20部屋に仕切られた展示室は、古墳時代から第2次大戦までの日本の戦史をたどる順路になっている。

 最も驚いたのは「日露戦争パノラマ館」。軍艦マーチが鳴り響く中スクリーンにはとどろく大砲の音、戦闘風景が勇ましいナレーションとともに展開されるのである。

 次に「大東亜戦争」コーナー。数多くそろえられている「軍神」と呼ばれる人たちの遺品と功績が目につくが、戦争に苦しんだ庶民生活や植民地政策の犠牲になった各国の状況などの説明はない。

 私をもっともあ然とさせたのが、次の文章である。

 「…アジア民族の独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍の輝かしい勝利の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は日本が敗れても消えることはなく独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」

 実は、ここは何百万、何千万もの尊い命を奪い犠牲にした戦争を反省し教訓を学ぶところではなく、「戦争勝利」をアピールする「博物館」であるということである。

茨城県朝鮮人慰霊塔を訪れた朝高生(06年2月)

 敗れはしたが世界各国、とりわけアジア民族の解放と独立のための「正義の戦争」であり、そのため日本は果敢に先頭に立ったのだと強調しているにほかならない。

 加害者と被害者、足を踏んだものと踏みにじられた者との立場がこれほどに差があるとは憤激にたえない。

 ある人たちは「戦没者に対する哀悼の念で戦争反省を踏まえて二度と日本は戦争を起してはいけないというという気持ちで靖国参拝をする」というが、「遊就館」を見たかぎり、過去の戦争を正当化し、美化しているとしか思えない。

 1869年に創設された靖国神社が74年の日本軍の台湾出兵以来のすべての戦争と植民地弾圧の日本軍戦死者を祀っていることを忘れてはならない。靖国には、江華島事件、壬午事変、甲申事変など日本の朝鮮侵略過程での日本軍の戦死者、靖国神社で「韓国暴徒鎮圧事件」「匪賊、不逞討伐」などと呼んでいる植民地鎮圧のための日本軍戦死者を含め、旧日本帝国の植民地支配のための軍事行動の日本軍戦死者が合祀されているのだ。

 在日同胞の歴史を顧みるならば、日本軍国主義時代、強制、半強制的に連行された者、また当時故郷での生活苦に耐えきれず玄界灘を渡った者とその子孫である。

 全国的にそうであったように茨城県にも1万2000人以上の人が連れてこられ、生命の危うい軍需工場、炭鉱、鉱山などで酷使され異国の土と化した人も数多い。

 あらゆる迫害と虐待を受け、苦しみ、恨み深く死んでいった先人たちを哀悼し1979年に73柱の遺骨を収納し、茨城県朝鮮人戦争犠牲者慰霊塔を建立したのである。

 その1世の慰霊塔管理委員から受け継いだ2、3世の同胞委員は当所において慰霊祭をし、歴史研修の現場として生かし今日までその役割を果たしてきた。

 また当慰霊塔には現在も在日朝鮮人、韓国人はもちろんのこと日本の方々も訪れている。

 私たちは今後も自分たちの心の問題として歴史を風化させることなく胸に刻み、二度と不幸な歴史を繰り返すことなく平和な時代を築いていく決意を持って後世に長く大事に語り継いでいくことだろう。(張永★、茨城県朝鮮人慰霊塔管理委員会事務局長)

★=ネに乍

[朝鮮新報 2006.4.11]